逃げ去ることを希ひながらひたすら道を歩いてゐる自分の姿に松江はやうやく気付いたのだつた。
その後安川がおたきに会ふと、それごらん、誰の世話にならなくとも丈夫な身体になつたぢやないか、人の力をたよつては立派な男になれませんと、まづ第一におたきは教訓を垂れたのだつた。
安川はその後いよいよ食ひつめて、おたきのもとへころがりこんできたのであつた。子供が母にすがりつく素直な気持はみぢんもなかつた。仇敵に食を恵まれても恐らく温情は感じるだらう、刑務所へぶちこまれてまんまと食にありついたら一切くだらぬ傷心に心をみだされるうれひなく食事々々を空気の如く虚心自然にくひうるであらう。おたきの家に起居することは即ち刑務所に起居する際の刺戟なきこと白雲のごとき絶対平和な日常をぬすみうることと同じである。おたきの与へる食事ほど物質的な食ひ物を、刑務所の弁当を外にしては想像することができなかつた、誰の世話になるといふひけめもいらない。おたきが彼等を養ふために苦労と迷惑を重ねるにしても彼等はてんで平気であつたし、然しおたきは恐らく苦労も迷惑もしないであらう。まよひこんだ野良猫に魚の骨をくれてやる気持であらう。さうしたら、彼等が野良猫であればいい。野良猫のやうに飯を食ひ、なまじひに人間なみの過分に多感な飯の食ひ方をしないだけでも幸せだ。利用する気持のほかには情も愛もないのであつた。これを換言すれば、利用する気持のほかに愛も情も起させない、これほども見事に精神にひつかかりのない避難所は、刑務所の外に想像の余地がなかつたのである。
安川が子供のときの話であつた。台所から茶の間まで飯櫃を運ぶことを命じられた。子供には重すぎたので、一足毎がひきずられて行く形であつたが、運悪く敷居に爪さきを引つかけたので、飛び込むやうな激しさで前へのめつた。飯はどつと畳の上へ流れでたが、彼は生爪をはがしたために、悲鳴をあげてころげまはつた。おたきの眼には四散した飯のほかには子供の怪我も映らなかつた。一途の憎悪が稜角をたてて盛りあがり、少年の一生に拭ふべからざる悪鬼の印象を与へたのだつた。おたきは子供の後襟をいきなり掴んで物置の中へひきずりこんだ。奥へめがけて力一杯押しとばしておき、遮二無二錠を下すのだつた。おたきの佯《いつわ》らざる本心が咄嗟にあらゆる計算をふみはづしてその全貌を暴露してゐた。一日の米に価ひしない子供であつた。頭のしんへ突きぬける傷の痛さに泣き狂ひながら、子供は母の心を知り、茫然己れを失ふやうな竦む思ひを感じつづけた。こぼれた飯の惜しさにも価ひしない見棄てられた傷が、自分にかくも堪へがたい苦痛を与へてゐることが、奇妙な皮肉に思はれて、自虐的な滑稽感とめくるめく憤怒を覚えた。
その後子供は憎しみにも倦み疲れはてて生長した。憎しみの代りに倦怠だけがあるほどだつた。母の問ひに答へる時ほどつッけんどんな場合はなかつた。同じ問ひを路傍の人にかけられた時は、まだ親しさと温かさとを心にこめて答へるのだつた。たとへば十年会はなかつたおたきに会つて、会はない時のくらしぶりを話してごらんと言はれるのだつた。すると彼はその問ひに答へることほど自分を卑しくすることはないと思ふのだつた。会はなかつた十年間どんな暮しをしてゐようと大きなお世話だ、どんな暮しをしてゐようとおよそ脈絡はないのだから。赤の他人が通りいつぺんの挨拶で同じ問ひを浴びせるなら通りいつぺんの気軽さで答へる手段もあるだらう。同じものを母の形でやられては腹が立つてくるばかりだ。顔の血の気も消えうせて、舌ざはりまで言葉が砂であるやうに空虚になる。十年ぶりに会つた子供は、そこで一語も答へずに、ぷいと立つて庭を眺めに行くのであつた。
そんな冷酷な仕打ちを受けてもおたきの顔色は動かなかつた。同じ冷酷な仕打ちを子供に向つて加へるときと同様に、仕打ちを受けてもその顔色は動かないのだ。おたきの不動の表情が安川にとつて最も苦痛な恐の対象になるのであつた。おたきの不動の表情と母なることの事実とに、どういふ秘密のつながりが隠されてゐるのであらう? それを思ふと、子供の心に、ひたすらな盲目な恐怖がわいた。
安川がおたきのもとへころがりこんで間もない時のことであつた。おたきがいつもと変らない無気味な静かさを宿した声で、牛乳配達は朝の早い商売で、朝起きは三文の得といふとほり早朝の澄んだ空気は身体にも良く、疲れた心にも爽やかだから、人間商売を選ぶなら彼等ほど恵まれたものはないだらうと言ふのであつた。それはどういふ意味だらうと安川は思つた。恵まれた商売だからお前も牛乳配達になれといふ意味であらうか? もともと安川は牛乳配達であらうと自由労働者であらうと商売に軽重をつける気持はもたない男で、生来の怠け癖と非力からさういふ働きを愛さなかつたまでである
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