分はそこへ帰りたいといふのであつた。帰る宿があるくらゐなら、とつくにそこへ追ひ返されてゐた筈のタツノであつた。宿がないから安川が引取るやうな気まぐれな思ひつきにもなつたのだ。嘘にきまつた話なので、安川はそれにとりあはず、とにかくここでゆつくり養生するのがいいよと気のない返事を呟くと、タツノは急にまつかに怒つて、自分を伯父に会はせない気でゐるのかと狂気のやうに喚いたあげくが、わんわん泣いてしまふのだつた。事はそれだけで終らなかつた。タツノはなほも泣きじやくりながら、横浜へすぐ帰るとは言はないから、とにかく伯父をつれてきてと言ふのである。その近辺では名の知れた工場だから、そこへ行つて自分の話を伝へてくれれば、さつそく自家用自動車で乗りつけてくれるにきまつてゐる、今日にも行つてきてくれと、たたみかけて言ふのであつた。さういふ語気の激しさを聞いてみれば、話半分であつたにしても、横浜に伯父のゐることは間違ひがない。来る来ないは別にして、とにかく一応行つてみようと安川は思つた。
 横浜の言はれたところへやつてきて、ひどく長い踏切を行つたり来たりしたあげく、工場地帯をぐるぐる隈なく探したが、そんな工場はどこにもなかつた。昔はあつたと言ふ人もなかつた。安川は疲れきつて帰つてきた。帰つてみると、タツノはちやうど活動から戻つたところで、横浜の話なんぞは忘れたやうな顔付だつたが、伯父の工場がなかつたといふ話をきくと、怒りのためにひきつけて、手足をばた/\うちふりながら、ころげまはつて泣き喚いた。泣き声の調子が一段高く変つたと思ふと、急に半身跳ねおこして、机の上の本やインクを手当り次第掴みとり安川めがけて投げつけた。嘘つき! 横浜へ行きもしないで! タツノは口に泡を吹き、噛みつぶされた呟きを繰返し物を投げた。
 ていよく急所をつかれたための照れかくしといへ、思ひあがつた心がなければこんな狂態は演じない。思ひあがるのも人柄で、高貴な風をして生れた美女であるなら時に思ひあがるのも取柄であらうが、赤い縮れ毛をふりみだした蟷螂《かまきり》のやうな痩せこけた女が女王のやうに思ひあがつてゐることは、概念だけでも醜悪だ。まして事実は眼もあてられない醜怪中の醜怪事だと松江は思つた。さういふ有様を見ることは、血が逆流する思ひであつた。
「ほつとき! そんな白痴のまじめな相手になる奴が大馬鹿野郎よ!」松江は恐らく彼等以上に逆上して、くひつくやうに喚き立てずにゐられなかつた。
「はじめつから大ヨタにきまつてるよ。こんなカマキリみたいな女が工場の社長の令嬢だつて! 自家用自動車が迎へにくるとは、言ひたいことを言つてやがら。のぼせあがるのもほどがあるよ。だいたい言はせておく人がまちがつてるのさ、ばか/\しくつて話になりやしないぢやないか!」
 松江は涙に眼がくらんだ。もしもタツノが相手になるなら、いや安川がタツノの味方をしてもいい、二人を相手に血まみれの喧嘩をする気で息をのんで突つ立つてゐた。
 安川は松江の相手にならなかつた。タツノの相手にもならなかつた。投げつけられて当つた物が多少の傷をつくつたが、怒る気にすらならなかつた。
 安川は松江が鋭く感じたことを、違つた角度でもつと鋭く感じてゐた。思ひあがつてゐるのだ。たしかに、思ひあがつてゐる。それはタツノの性格的なものではなく、まつたく一に自分との相対的なものであるのを認めなければならなかつた。やつぱり自分の献身的な仕へやうを、恋のためと誤解してゐるせゐによるのだ。さういふタツノの思ひあがつた有様は、かつて以前も感じたやうに、奴隷を見下す王女のやうなものであつた。それはたしかに滑稽だつた。然しタツノが手当り次第の本やインクを投げつけるのを、まるで白痴か不死身のやうに敢て怒りもしなければ身をよけもせず、当るものは勝手に当らせ、痛む傷は勝手に痛ませ、かうして黙つて立つてゐるのがとりわけ不快なことでもなく莫迦々々しいとも思はない自分の奇妙な暢気さに安川はふと気付くのだつた。俺はタツノの奴隷になるのが別に不快でないらしいと彼は思つた。それどころか、この状態を自然のままにほつたらかしておきさへすれば、自分の中の最も自然な傾向が、タツノを王女にまつりあげ、自分をタツノの奴隷にひくめ、動きのつかないどたんばへまでずる/\と落ち放第に落ちこんでゆく感じがあつた。そのどたんばへ行きついても自分は悔いることがなく、痴呆のやうにてんで平気でゐられるやうな、ひどく暢気な気持がしたのだ。
 そんな気持をとりとめもなく捏《こ》ねまはしてゐる一方に、彼はまつたく違つたことを、ぼんやり思ひあててゐた。あたかも奴隷の敵愾心でもあるかのやうに、タツノの痩せた肉体が彼の劣情の対象となり、その醜悪な新鮮さを夢の心持で追ひまはすのが、小春日和のそぞろ歩きを思はすやう
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