がひびくのである。その跫音《あしおと》のうるささが、松江に一生忘れることのできないやうな怖い思ひを感じさせた。
遠山は不在だつた。はりつめた気がいちじに弛んだ思ひがした。それでよかつたと自分に言つた。とにかく此処まで来たことで気持は充分済んでゐると思ふのだつた。然し手紙を書き残さねばならないやうな心残りが、ぼんやり頭にからみついて離れなかつた。松江は廊下の窓に凭れて、外の景色を眺めてゐた。そこへ遠山が帰つてきた。
松江は遠山に会つてみると、その時までとはまるで違つた自分自身を見出した。彼女は泣きもしなかつた。一部始終を語りながら、ひとごとのやうに時々苦笑をもらすのだつた。けれども時々薄い涙が瞳を掩ふた。
「その女なら知つてますよ」と遠山は言つた。「その酒場なら僕も一緒に時々飲みに行きましたから」
そして彼はさとすやうに語りはじめた。
「それは御二人の夫婦生活を乱すやうな重大性をもつものではありません。あの女は安川の恋愛の対象でなく、性欲の対象ですらないでせう。第一これが恋人だつたら遮二無二隠す才覚に耽るでせうから、公然とうちへ引取るといふことが、つまりそれだけでしかないことを明瞭に語つてゐます。安川のさういふことをやらかしさうな危なさは、僕も前から感じてゐました。安川はあせりすぎてゐるのです。あの男の性格には英雄主義的な熾烈な生き方をもとめる傾向が人並すぐれて強く働いてゐますから、あの男の人生観、もろもろの抽象的煩悶は結局政治的関心へまで発展せずにはすみません。彼はずつと古くから共産主義に心を動かされてゐるのですが、彼を育てた個人主義的な教養と内省とが行動に走ることの一面の欺瞞を許さないため、いまだにぶすぶす内攻してゐるていたらくです。彼はまた富や名誉を手にいれたいと欲しながら、早くも富貴の虚しさに絶望するだけの苛酷な批判精神を植ゑつけられてゐますので、また恋をもとめてゐるくせに、その恋を実際掴みもせぬうちから已に恋のくだらなさに絶望もしてゐる退屈もしてゐるといふ状態です。いはばあの男は理智と本能の渾沌たる矛盾撞着の中に棲みくたくたに疲れきつてゐるやうなもので、たよるべき一つの信念とか真実を探りあてることができないのです。彼はまた文学に生きようといふ狂気にちかい情熱すらもつてゐますが、何を書くべきかといふ疑ひのために、さめる筈のないその情熱をさめたやうに感じる
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