味では豪傑も恐喝も眼中にない様子で、二千円には鼻もひつかけない冷然たる挨拶だつた。
 そこで二千円の札束を私の懐に収めた瞬間からのことである。私の頭に突然思ひがけない想念の塊りが飛びこんできたのだ。それから叔父と対座した長丁場の二六時中、怪獣が泣き喚いた賑やかな時間でさへ、この黒々とした想念の雲は、私の脳漿にからみついて離れない。私が放心しても生きてゐる、さういふねぢくれた状態であつた。
 その想念とは?――夢の中では時々こうした思ひがけない想念を糞真面目に思ひついたり追求したり実行したりしてゐるものだが、現実では殆んど経験しないことだ。例へば諸君も記憶があらうが、かりに我々が十年一日の如く海を渡る船乗りであるとして、山のことには一向に不案内であるばかりか、山に対して微塵の野心も希望も持てない人間とする。ところが我々の夢の中では、我々が嘗て夢想だに及ばなかつたダムの設計技師と変つて、希望と勇気の全てのものを山岳と科学に打ちこんでゐたりする。夢の中の設計技師は自分の職業を疑ぐりもしないし、自分の仕事と希望に対して絶対の信念を懐いてゐたりするものだ。――私の想念が、現実に於て、この場合を再
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