点]に係はる感情が、決して自然のものでない愛や憎しみを強制する、その不自然とわづらはしさが不快なのだ。何者に成りたいか? と訊かれたら、先づ何よりも家庭を棄てる者になりたいと答へる気持を持ちだしてから、もう一昔の時が流れた。巣立つた鴉のやうに、古巣を離れてどこへでも飛び去つてはいけないのか? と言ふのではないのだ。巣を飛び去る行為は必ずしも難い筈のものではない。古巣を逃げる、然し又、新らしい巣を造つてしまへば同んなじことだ! 古巣を逃げだすといふ環境の突変によつて、古巣にからまる不自然な然し根強い感情を同時に一変せしめることができるものなら、多くの悲しみが私のまことに不甲斐ない日々から消え失せてくれるであらう。私は肉親、又家庭、それを直接言ひたいのではなかつた。古巣にからまる不得要領な歪曲された感情や行為の表出が、自然であるべき我々の全てのものを自然ならざるものとする、その苛立たしい暴力に就て言ひたいのだ。
 家庭といふ言葉からいきなり私が思ひつくのは、安らかに――古風に言へば、畳の上で死ぬ場所だ、といふことだ。死といふこと、特に自然死といふこと、このことほど馴染みすぎて胸にひびかぬ言葉もないが、この事実ほど我々の生活に決定的な唯一言を用意した怪物は決してない。然るに多くの人々はその正体の生活に実感をもつて迫らないといふところから、死を云々する輩ほど実人生に縁遠い愚劣な苦労に憂身をやつす莫迦はないと言ひたてる。由来生きた奴が同時に死に対面する現象が決して在り得ないことは分りきつた話であるが、生と死とぶつかることがない、だから生きた奴は死ぬことがないといふ名言を、飛び上りたい恐怖の心できかない奴がおかしいのだ。私は死といふことそのものに就て斯く言ふわけではないので、我々のもはや本能的なある種の精神生活乃至知的活動に対してのそれの持つ決定的な魔力の程が怖ろしいといふのであり、それの故に生と死とぶつかることがないといふ全悲劇の慟哭にも似た悲惨な自嘲が怖ろしいといふのである。読者諸君はみだりに死を云々する非能率的な手合ひ、即ち私の如き種族を「厭世人」と言ひならはしてゐるものならば誤解であつて、かかる死の魔手の前に悪戦苦闘の輩ほど最も「好世的」――厭世的のアントニイムの心算であるが――の者はない。
 さて家庭といへば安らかに死ぬ場所と思ひつくといふ話であつたが、安らかに生きる(死ぬるも同じ)といふことは、腹も立てるな、心にもない生き方をしろ、嘘をつけといふことだ。家庭とは斯様な生き方のはきだめ[#「はきだめ」に傍点]であり避難所であり、今ではかかる生き方の母胎と化した不思議な迷宮にほかならないと言ひきりたい。――私の言ひ方はあまりにも幼稚なものに見えるであらう。さういふ大人はなるほど世間に俗に言ふ「大人の言ひ方」を知つてゐるのだ。「大人げない振舞ひをして莫迦を見るな。悧巧に生きよ」といふことを。然し悧巧に生きることが果して大人の振舞ひであらうか? その悧巧さはあやまられてゐないのか? 同様にその大人とは甲羅をへた子供といふよりなほ悪い権威への極めて皮肉な迎合を意味してゐないか? 私の考へによれば、それが大人の言ひ方で悧巧な生き方であることを、「死にぶつからない生」の奴が太平楽に寝言を言つてゐるだけなのだ。私は断言するが、「死にぶつからない生」といふのは贋物です。かりそめにも生きることに於て、確実にして正確な死とぶつからない生き方は「生き方以前」といふものだ。それは真物ではなかつたのだ。率直に私の考へを述べれば、生と死は別物ではない。生きることは即ち死それ自体に他ならず、それ以外の何物でもあり得ないのだ。――
 すると大人は反駁する。死? 冗談ぢやない! 誰がそんな夢物語をきいてゐた? 生きることは死自体だと? そんな逆説は改まつて考へてみる気持もないが、いきなり話をそんなところへ飛ばされたんでは、とにかく聴いてゐる方で莫迦らしすぎる。私はとかく本質的な抽象論といふ奴が苦手だが、私は私なりにもつと身近かな、然し恐らく何事よりも赤裸々な底を割つて「実際の経験」の果を理窟ぬきで言つてゐるのさ。つまり七面倒な理窟ぬきにすぐと背後《うしろ》をふりかへつてみたまへ、それだけでいいのだ、即ち人間といふものは元来が、どの血管、どの神経の一本までもといふほど純粋かつ徹底的に利己的な動物なんだ。生きるとはつまり自分の利益のために生きることに他ならない。然し世間は面倒だ。表だつて直接我利一点ばりに暮せる所ではないから、義理とか人情といふわけの分らぬ約束にも分相応のふるまひをしなければならず、時には私慾を忘れたやうな顔付もしなければならないが、そこで悧巧に暮らせといふのはそこのところだ。所詮世間は騙しあひだ。嘘の坩堝だ。嘘をつくといふことだけが真実なのだ。人に
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