物音も動きもない暗い海に変るばかりのやうだつた。私はかたまりついた冷めたい笑ひをしやうことなしに口べりに浮かべ、二千円の札束をつかみだした。
「ずいぶん長い苦しみをさせたね。これで償ひはできないが、何かの役に立ててくれ」
 私の声も泥沼の音のやうに虚しかつたにちがひない。札束をみつめた三千代の顔色は蒼ざめた。三千代は怖々と私の眼に視線をうつすと、突然サッと顫えあがり、おし隠すやうに札束の上を私の手諸共鷲掴みにした。
「これであたしと別れる気なの!」
 三千代は絶望の叫びをあげた。
「いやだ! いやだ! うそだとおつしやい! あたしが貴君にお金が欲しいといつ言つて! この生活が苦しいなんて、訴へたことがあると思つて! 卑怯だわ! あたしがいやになつたのなら、たつた一言さう言つてよ! あたし、それが貴君のためなら諦らめるわ! でも、いやだ! そんなみぢめなことが、あたしの死ぬまでありませんやうに! 神様! だましてゐてよ! そつと向ふへ行つちまつてよ! あたしいつまでも斯うして貴君を待つてゐるわ! こんな金! あたしが欲しがると思ふなんて!」
 三千代はいきなり札束をとると、絶望の放心にとりつかれた軟柔の動作で、室内一面にバラまいた。札束は部屋一面に散らばつた。
「さうよ! さうよ! お姉さん! こんなお札破いちやう方がいいわよ! アハヽヽヽヽヽ」
 一瞬の沈黙を破つてけたたましい笑ひ声が起つたと思ふと、弥生がもつくり半身を起して、狂気のやうに哄笑しながら、二三枚の札幣《さつ》をつかんでビリビリ千切つた。
「破いちやつたわよ! 破いちやつたわよ!」
 叫びながら弥生の笑顔は石のやうに蒼ざめてきた。茫然と一つの空間に視線を据えてゐたかと思ふと、突然顔を布団の中へガバと押しこみ、火のつくやうに泣きだした。狂つたやうに背をうねらせた。
 私の心は平静を破られはしたが、然し騒がしいものではなかつた。
「別れやうなんて、さういふ意味はないのだよ。これはただ軽い償ひのための金だ。勿論お前は、これを破いても焼いてもいいのだ」
 私はできる限りの優しさと静かさで言つた。私は三千代を強い言葉で励ましたかつたが、さういふ言葉も、さういふ強さも浮きあがらうとはしなかつたので。
 さうして私が部屋一面に散らばつた札ビラを見るともなくぼんやり眺めてゐるうちに、私はその札ビラが拾はれもせず散るにまかせてあることが、全く守銭奴の心理によつて、ふと気がかりになつてきた。
 ――三千代に比べてなんて浅間敷い心だらう!(と、まるで何か辛味のやうな自嘲を感じた)札ビラの散らばつたのを見てゐるだけで、あれがこれからどうなるのかと気が揉めるのだ! まるで往来へ落ちてゐることと同じやうに。一枚だつて大金だぜといつたやうに。心の奥の出来事だからいいやうなものの、人に見抜かれたら目も当てられない醜怪なものに違ひはないて。……私はボンヤリと考へてゐた。
 すると私の心の奥に、唐突な、破裂を喜ぶ快感がもりあがつてきたのだ。その快感が浮ぶと一緒に、突然の亢奮から全身の血が逆流した。あの札ビラを一枚一枚たんねんに拾ひあつめろ! その醜悪な姿を行へ! それによつて可憐な女の高潔な魂にわびるがいい! せめて自らの醜怪さに暗黒の涙をふりそそぐがいい!……私の心はだしぬけに、かやうな狂気の喚き声をたてはじめたのだ。
 私の記憶によれば、曾《か》つて斯様な精神状態を覚えたことは、これまで必ずしもなかつたとは言へないものを感じてはゐる。然し斯様な心の動きを実際の行動にうつすなんて、およそ私の趣味でもなく、性格でもありえない。私はすべて常に心に於てのみ人間なみの正義や冒険を行つてゐるだけの男だ。それが実際の行為の中に行はれることがあらうなぞと、私のどんなうかつな夢想が考へ得たことがあらうか! ところが、この日は――私が殆んどアッと呆れるひまもなく、私は不意に動きだして、我に返つた瞬間には已になにか獣めくものうい動作で、まるで一つづつ反芻しながら食ふ様で、札ビラを拾ひはじめてゐたのであつた。
 冷汗が流れ、めまひがした。到頭やつたな! 私は急に気を失つてしまひさうな気持もした。直ちに私は観念もした。然し私は泣きだしさうになつたのだつた。
 ――ゆつくり拾へ! けだもの! さうだとも一枚づつ。……暗黒の、墨汁のやうな濁つた涙がもろもろと流れでてこい! 醜怪な魂を醜怪な姿にハッキリと具現しながら、もつと惨めな獣のやうに札ビラを拾へ! その惨めさを、そして自らの心の上に焼きつけろ!
 然し私は一方の心で糞落付きに落付いてゐた。私は顔も赧らめず、表情も変えず、全ての札ビラを克明に落付き払つて拾ひ終つた。それを静かに三千代に渡した。その瞬間には、かすかに異常な動悸すら鳴つてはゐない感じであつた。
「僕を疑つては
前へ 次へ
全32ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング