快な作業ではなく、片腕の上下運動によつて間断なく薪木を叩くといふキツヽキのやうな作業でした。
すると夫人は男に向つて、昨日は大きな丸太を割りもせず、おまけに濡れたのを差込むものだから燻《くすぶっ》て目も開けてゐられなかつた、今日は良く乾いてゐますか、濡れた薪木と乾いた薪木の区別ぐらゐは御存知でせうね、と頭上から叱言を浴せますが、男は平然たるもので返答もなくキツヽキの作業をつゞけてをります。そんなに忙しくコツ/\と叩いて指を切りますよ。どの指がなくても不自由ですのに、指はあとから生えません、そんなに忙しく叩いても切れるものですか、もつと落付いて一撃に、ホラ、木が飛んだ、お叱言はキリもなく続きますが、男は風馬牛、自らの流儀をあくまで墨守して熱闘十分間薪木を切り終ると今度はそれを抱へ去つて風呂の火をたきつけてゐます。之が当主の太郎丸氏でした。当主は私用専断によつて下男を数日の旅行にだした、あなたが勝手にしたことですからお風呂はあなたが焚いて下さい、かう捩ぢこまれて正論に抗すべき詭弁の立てやうもないから、太郎丸氏は無念ながら風呂をたきつけてゐるのです。数名の女中もゐるけれども、各々職域を守つて堅く容喙をつゝしむことが家憲の如くでありました。
その翌日のことです。加茂五郎兵衛の手沢品や日記などを一まとめに投げ入れてあるといふ蔵の中へ案内されたのですが、太郎丸氏はたつた一冊か二冊づゝ資料をとりだしてきて若干の解説を加へて私に渡して又とりだしに消え去る。そのうちに私の前に立膝をして、唐突に天外の奇想を喋りはじめました。
あの人(といふのは自分の奥さんのことです)は只の人ではありませんよ。古代の人です。日本がまだ神代のころ九州に卑弥呼といふ女の王様がゐたさうですが、あの人もさういふ人です。腕力は弱いですけど、計略が巧みですから王様になるです。あの人は村長もできるですよ。村の気風やしきたりは変るですけど、あの人の方法で村は円くをさまるです。百姓は畑をつくるよりオベッカを言ふです。日雇人夫は仕事をなまけて仏壇の前でお線香をあげたまゝ昼寝するです。そのくせ百姓が税金を納めなければ、あの人は軍隊をさしむけるです。けれども利巧な百姓は税金の半分のお金であの人に賄賂を送るです。それで村の税金は納まらぬですけど、あの人はお金持になるです。あの人は自分のお金で兵隊を養ふですから、誰も文句は言はんですよ。
そこまではまだ良かつた。すこし離れたところに折葉さんが父の日記を執りあげて読んでゐました。そこで太郎丸氏の着想は急角度に転進して、氏自ら忽然古代史の奥底に没入し去つてしまつた。
私は生きてゐるのが面倒くさくなるのですよ。死んでから、人間がどうなるか、あなたは知つてゐますか、私は知らんです。妹(折葉さんのこと)にきゝましたら、多分眠つてゐるときと同じだらうと言ふのですが、私は眠ることもあんまり好きではないです。私は熟睡できないです。その代り、一日に十六時間ぐらゐ寝床にゐます。本を読んだり寝たふりをしてゐます。私は死なうと思つたことがありました。そのとき妹に相談して一緒に死なうと思つたです。けれども、妹に相談すれば、妹は必ず一緒に死ぬと答へるですから、私は慌たゞしいことになるでせう。多分私は妹にひかれて妹のあとからフラ/\と死ぬやうな立場になるですから、みじめだと思つたです。さう思ひながら妹の顔を見ましたが、眼は見ませんでしたが、鼻と唇を見たです。なぜなら、そのとき妹は横を向いてゐたからでした。妹の鼻の形は美しいですから。けれども整つた美しさですから、唇のみづ/\しさ妖しさに比べれば、永く注意を惹かなかつたです。私は唇をみつめてゐました。あなたはこの世に無限の物を見たことがありますか。私は法隆寺を見物しました。千年の昔からつゞき、そして之から何千年つゞくか知れませんが、私は然し心を動かされませんでした。あれは無限ではないです。夢殿の観音も見ましたが、私はグロテスクだと思つたゞけです。私は妹の唇を見てゐるうちに心をうたれて、無限だと思つたのです。私は妹と一緒に死ぬのはいけないことだと思ひました。私は泣いたです。一日中、寝たふりをして泣いてゐたです。泣くわけが分らなかつたですが、涙が流れていつまでも涸れないので奇妙でした。一日一晩泣きあかしたです。そして死ぬのをやめました。けれども、その後も、今も、生きてゐるのが面倒です。私は今でも時々妹の唇をぬすみ見しますが、見るたびに、段々と別のことを思ふやうになつたです。もはや無限ではないのです。私には手のとゞかない秘密があるのだと思つたです。妹は美しすぎます。私は妹を見てゐると、十里四方もつゞく満開の桜の森林があつて、そのまんなかに私だけたつた一人置きすてられてしまつたやうな寂しさを感じます。私は花びらに埋もれ、花びらを吹く風に追はれて、困りながら歩いてゐるのです。
私は若干の勇気をもつて折葉さんの方をぬすみ見ずにはゐられなかつた。さうして、私はそこに、まさしく折葉さんの横顔を見た。けれども、鼻の形や唇はとにかくとして、何事も耳に聴えぬやうな顔のあまりの涼しさに驚きました。耳があるのか、耳があるならば、この人の節制はこの世の物ではないやうな、すべて遠い世の有様を眼前に見てゐるやうな奇怪の感にとらはれましたが、その風の涼しさはまさしく桜の森林に花びらを吹く風の類ひに異なりません。
生憎私の宙ブラリンの教養はかういふ唐突な古代史の人々の生活に対処し得る訓練が欠如してをるものですから、多分私の驚きが鏡の如く純潔な太郎丸氏に反映致したものか、太郎丸氏は大きな目を顔一ぱいに見開いて、私をヂッと見てゐました。そして私が心にもなく、なぜあなたは生きるのが面倒になるのですか、といらざる口をすべらしたものですから、私がシマッタと思つたときには、すでに顔一ぱいの大きな目を急に小さくすぼめてゐました。そして急いで立上つて、資料に就て二三事務的なことを言ひ添へて、立去つてしまつたのです。
底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新時代 創刊号」経国社
1945(昭和20)年10月1日発行
初出:「新時代 創刊号」経国社
1945(昭和20)年10月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年10月15日作成
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