事は恋愛であつた。恋に痩せ千々に乱れるといふのは奈良平安の昔から我が政治家の美徳です。ところが五郎兵衛は恋そのものにはさして乱れてゐませんでしたが、執念の女に追はれて、大いに悩んでをりました。
 この女はお玉と云つて、元は加茂家の女中です。先夫人の死去と共に、いつとなく後妻のやうな位置に坐り、美人でもなければ才女でもないのですが、加茂家を切廻す権勢は大したものです。意地ッ張りで右と言つたら以後の人世は左に目をやらぬタチで、内助の功などは全くなく、先夫人の子供達は去勢された有様でありました。不思議なくらゐ五郎兵衛の頭が上らなかつた理由は奈辺にありますか、それでも彼は常住女色に踏み迷ひ絶えざる波瀾を捲き起してはをりました。
 折しも五郎兵衛は踊りの師匠の娘と恋に落ち、漁色の余裕を喪失して真の闇路を踏み迷ふ身となつた。そのとき五郎兵衛は五十三、娘はとつて十九です。娘は琴、長唄、踊りなど諸芸に通じ、国文学の素養が深くて伊勢物語の現代語訳を遺した程の才媛ですが、又、自作の小唄など幽玄沈痛な傑作があつたといふ通人で、知る程の男子に悔恨を植ゑた佳人です。かほどの人が五十三の五郎兵衛と相思の仲に落ちたといふ、もとより五郎兵衛に凡ならざる取柄があつてのことでせうが、この娘も変り者です。親の師匠も承知で、それに就ては正式に結婚してくれろ、といふ、五郎兵衛もその肚ですが、お玉が頑張つてゐますから、根岸の里に然るべき住居を定めて新婚生活を始めましたが、之をお玉が嗅ぎつけたから、刃物三昧です。根岸の里にも居られぬ、親元も危い、そこで新夫人はあの旅館この待合と居所を変へてお玉の襲撃をかはしますが、之につれて五郎兵衛の居所も定かでない。之が五郎兵衛一世一代の大事に於ける行状です。
 五郎兵衛の醜態、不手際にも罪はあつたが、元々内閣の成立に無理があつた。そのうへ内務省と司法省とで管轄上のことから暗闘があつて反内閣的火の手が司法官内部に起つたから、この問題が刑法上の事件になつた、そこで五郎兵衛は政界を失脚しましたが、このとき五郎兵衛は腹を切つた。家人が気付いて早々医師の手を加へたから危い命をくひとめましたが、大時代の出来事で、男を上げたのやら下げたのやら、とにかく賑かな騒ぎでした。五郎兵衛が一切の責任を負ひ累の四方に及ぶを避けるために腹を切つたといふ、事実検事の追及も有耶無耶に結局事件は不起訴に終りましたが、五郎兵衛の切腹は実は嘘です、なるほど五郎兵衛の腹中に脇差が刺込まれてはをつた、けれどもこの脇差は狂乱のお玉が突刺したので、之を切腹にしたのは咄嗟の五郎兵衛の機転でした。女中に腹を突刺されるといふ三面記事は醜態ですが、それにしても、丁度ハラキリが有つても良いときに背中ではなく腹を突刺された五郎兵衛は幸運でした、これは五郎兵衛の長男であり加茂家の当主たる人が目撃した事実ですから、間違ひはない。
 そのとき、五郎兵衛は落付いてゐた。傷口を片手で押へ、家人に向つて真相を口外するなと申し渡したさうですが、五郎兵衛が落付いてゐるので、手の指の間から臓物がたれ落ちてゐても、家人は傷が浅いのだと思つてゐた。実は瀕死の重傷でした。五郎兵衛は血のたれる脇差を執上げて眺めすかしてバカめ、之は金比羅様(だか稲荷様だか)の参拝の道の茶店の床の間で見付けて二十五円(だかいくらだか)で買つた安物だ。選りに選つて一番安物を掴みだしてくるとは貴様の下素《げす》根性のせゐだらう、とブツ/\叱言だか強がりだか言つてゐたさうです。そこで病床から指図して、お玉の別居を申渡した由ですが、之は快心事であつたに相違ない。さすがのお玉も抗する術なく、かくて退院と共に晴れて新婚生活にはいつたのですから、五郎兵衛は腹の脇差を最大限に利用して利息まで稼いだ。爾来政界への野心もなく悠々新夫人との生活を愛したのですが、新夫人は幸薄く、五郎兵衛に先じて鬼籍の人となつた。わすれがたみが一人、女児で、折葉といふ。五郎兵衛は折葉を愛すること一方ならず、散歩に、酒席に、観劇に、訪問に、影の形に添ふ如く手放したことがない。折葉はこの物語の主要なる人物の一人です。
 五郎兵衛は折葉十二の年に永眠しました。晩年は読書、碁、酒、観劇などに日を送り、折葉にまさる愛人はなかつたと申しますから平穏な晩年です。

     その二

 私が加茂五郎兵衛の伝記編纂に当ることになつたのは、木村鉄山先生のはからひでした。先生は明治中期の政客ですが、明治後期は企業家、大正以後は趣味家です。別段出入りをしてゐたわけではなかつたのですが、同郷のせゐで私の名前を記憶にとゞめてをられ、折にふれて拙作に目を通されたこともあつた由で、一般の世評よりも高く評価して下さつた。それで加茂五郎兵衛の伝記をあの男にやらせてみよう、さういふことになつて、先生のお宅へ招ぜら
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