欲望について
――プレヴォとラクロ――
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)活計《たつき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)物質精神|相食《あいは》み
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私は昔から家庭といふものに疑ひをいだいてゐた。愛する人と家庭をつくりたいのも人の本能であるかも知れぬが、この家庭を否応なく、陰鬱に、死に至るまで守らねばならぬか、どうか。なぜ、それが美徳であるのか。勤倹の精神とか困苦耐乏の精神とか、さういふ美徳と同じやうに、実際は美徳よりも悪徳にちかいものではないかといふ気が、私にはしてならなかつた。
多くの人々の家庭はたのしい棲家よりも、私にはむしろ牢獄といふ感じがする。そしてなぜ耐乏が美徳であるかと同じやうに、この陰鬱な家庭に就ても、人々は、それが美徳であり、その陰鬱さに堪へ、むしろ暗さの中に楽しみを見出すことが人生の大事であるといふ風に馴らされてきた。たゞ「馴らされてきた」のだとしか思ふことができなかつた。
私はマノン・レスコオのやうな娼婦が好きだ。天性の娼婦が好きだ。彼女には家庭とか貞操といふ観念がない。それを守ることが美徳であり、それを破ることが罪悪だといふ観念がないのである。マノンの欲するのは豪奢な陽気な日毎々々で、陰鬱な生活に堪へられないだけなのである。
彼女にとつて、媚態は徳性であり、彼女の勤労ですらあつた。そこから当然の所得をする。陽気な楽しい日毎々々の活計《たつき》のための。
たぶん太古は人間達はそんな風に日毎々々を陽気に暮してゐたのかも知れない。どうも秩序がなくては共同生活に困るといふので、社会生活といふものが起つてきて、今度は秩序のために多くのことを犠牲にし、善悪美醜幸不幸なにがその本体やらコントンとして分ちがたい物質精神|相食《あいは》み相重りわけの分らぬものが出来上つたのだらうと思ふ。人生とは何か、曰く不可解。私の考へでは、不可決といふのだ。私は決して家庭が悪いと断言しない。断言ができないのだ。この人生に解決があらうとは思はないのだから。
要するに人間には社会生活の秩序が必要であるが、秩序は必ず犠牲をともなうもので、この両方を秤にかけて公平に割りだすやうな算式が発見される筈はない。要するに今あるよりも「よりよいもの」を探すことができるだけだ。絶対だの永遠の幸福などゝいふものがある筈はない。
私は勤倹精神だの困苦欠乏に耐へる精神などゝいふものが嫌ひである。働くのは遊ぶためだと考へてをり、より美しいもの便利なもの楽しいものを求めるのは人間の自然であり、それを拒み歪むべき理由はないと信じてゐる。尤も私は、遊ぶことも、近頃はひどく退屈だ。私の心を本当に慰めてくれる遊びなど、私はこの現実に知らず、又、見出してゐない。
マノン・レスコオの作者プレヴォは本職はカトリックの坊さんであるが、神、絶対に就て考へ、人間の幸福に就て考へる一人の僧侶が天性の娼婦を描き、その悪徳を地上の至高の美果の如くに描きだしたといふことは或いは大いに自然のことであらうと思ふ。そしてマノンの天性は又女一般の隠された天性でもあるが、天国の幸福を考へる前に人間が地上の幸福を追求するのも自然で、然し、人間は殆ど生れながらにして天国のために地上を犠牲にしてゐるのだが、かゝる訓練と習慣と秩序に対して、僧侶自身が反逆し疑ふことは思想の正規の発展の段階であり、毫も不自然ではないのである。疑ぐらず反逆しないのが不思議なのだ。
人間の動物性は社会秩序といふ網によつてすくひあげることが不可能で、どうしても網の目からこぼれてしまふ。そして我々はさういふ動物性を秩序の網にすくひあげることができないので悪徳であるといふのであるが、然しその社会生活の幅、文化といふものが発展進歩してきたものは秩序によるよりもその悪徳のせゐによることが多いのである。
日本軍部がヨーロッパ文明をさして堕落と称したのも、いはれのないことではない。もし人間が人間の社会性に主点を置き、秩序によつて人間を完全に縛りつけようとするなら、それはいはゆる武士道の如きものとなり、人の個性は失はれ、個性に代るに制服、たとへば武士といふ一つの型の制服の中の、いはゞ人間以外の生物になつてしまふ。女は小笠原流といふ礼儀の中の武士の娘であり妻であつて、女でも人間でもないのである。そして人間の欲望は禁じられ、困苦欠乏に耐へることが美徳となり、自我にでなしに、他に対する忠誠が強要せられる。これは蟻の生活だ。蓋し戦時中ある軍人は蟻の生活を模範としその如く働けと言つた。
もし人間が自我に就て考へるなら、自我の欲望と社会の規約束縛の摩擦や矛盾に就て、考へるといふ生活が先づ第一にそこから始まるのは自然ではないか。日本人とても例外ではない。全ての人々が考へるの
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