と頭に沁みて、恋の告白をするやうなとりのぼせた思ひがまつたくなかつた。
谷村はためらはなかつた。これから何かゞ起るのだ。一つの門がひらかれる。ひらかなければならない。彼は先づ身を投げださなければならないことが分つてゐる。門に向つて。
「僕は前奏曲を省略するから。信ちやん。僕は雰囲気はきらひなのだから」
彼の落着きはまだつゞいてゐた。
「僕はね、恋を打ちあけに来たのだよ、信ちやんに。恋といふものではないかも知れない。なぜなら、僕の胸は一向にときめいてもゐないのだからさ。僕はね、景色に恋がしたいのだ。信ちやんといふ美しい風景にね。僕は夢自体を生きたい。信ちやんの言葉だの、信ちやんの目だの、信ちやんの心だの、そんなものをいつぱいにつめた袋みたいなものに、僕自身がなりたいのだ。袋ごと燃えてしまひたい。信ちやん自身の袋の中に僕が入れてもらへるかどうか知らないけれども、僕は信ちやんを追ひかけたいのだ。この恋は僕の信仰なのだ。僕が熱望してゐることは殉教したいといふことだ」
谷村は言葉が大袈裟になりすぎたので苦笑した。
信子は放心してゐるやうな様子なのである。目をつぶつた。何もきいてゐないやうな顔でもあるし、うつとりしてゐるやうでもあつた。
谷村の言葉がとぎれても、信子の様子は変らない。谷村は投げださう投げださうと努力した。つまり、何かを言ひきることによつて、自分を投げだしてしまひたいのだ。心に踏切りのやうなものがある筈だ。突然踏切り、踏みだしてゐるやうな一線が。彼はもどかしくなつてゐた。まだ踏切つてゐない。彼はたゞ信子の様子が意外であり、放心だか、うつとりだか、全くつかまへどころのない複雑な翳の綾が、さすがだと思つた。すくなくとも恋を告白しなければこの翳の綾は見ることができなかつた筈だ。すこし尖つた翳もある。やはらかい翳もある。幼さの翳もあつたが、さうでない翳、つまり、恋の老練を谷村はたしかに認めた。
この女は恋に退屈しないのだ、と谷村は思つた。その考へは彼に力を与へた。
「僕は信ちやんに愛されたいといふことよりも、信ちやんを愛したいのだ。信ちやんが僕の絶対であるやうになりたいのだ。さうする力が信ちやんには有るやうな気がする。そして、信ちやんがさうしてくれることを熱願するのだ。信ちやんが死ねといへば死ぬことができるやうに、とことんまで迷ひたい。恋ひこがれたい。信ちやんのために、他の一切をすてゝ顧みない力が宿つて欲しいのだ。僕はすこしムキになりすぎてゐるやうだ。つまり僕の心がムキでないから、ムキな言葉を使ふのさ。僕は肉体力が弱すぎるから、燃えるやうな魂だけを感じたい。肉体よりも、もつと強烈な主人が欲しい」
喋りながら、断片的な色々の思ひが掠めて行つた。たとへば、退屈といふこと、自己誇張といふこと、無意味といふこと、本心の狙ひから外れてゐるといふこと、自己嫌悪といふこと、もう止したい、眠つてしまひたいといふこと。
けれども、それらが信子の顔と姿態によつて一つづつ吹き消されて行く快さを谷村は覚えた。それはその快さを自ら納得せしめるための彼自身の作意ではなかつた。想念が信子の顔と姿態に吸はれて掻き消えて行く。いつも意識に残るものは、信子の顔と姿態がすべてゞあつた。
それも媚態の一つだと谷村は思つた。最も人工的な、ある技術家の作品だつた。谷村の忘れ得ぬ驚きが一つある。それはその瞬間には気付くことができなかつた。気付き得ぬところにその意味があるのだから。
信子はいさゝかも驚かなかつた。谷村の唐突な口説が始められた瞬間に於てすらも。素朴なもの、無技巧なもの、凡そいかなるかすかなぎごちない気配をも窺ふ余地がなかつた。いつかうつとりと、又、漠然と、放心しきつてゐるのみである。いつか起るかも知れぬ素子の破綻に就いて谷村が不安をいだく必要もなかつた。
なぜ今まで口説かなかつたの。いつでも遊んであげたのに。さういふ意味があるやうな気がする。然し、さういふ形はどこにもなかつた。たゞ、すこしも怖しくないだけだ。すべてが赦されてゐるやうだつた。
★
谷村は落着いた気持になつた。今までも落着いてゐたつもりであつたが、まるで違つた落着きが入れかはつてゐるやうな気持であつた。あせりたい心、あせらねばならぬ思ひがなくなつてゐた。彼はたゞこの部屋の波にたゞよふ小舟のやうな思ひがした。やがてどこかの岸へつくだらう。南の島だか、北の涯だか。
彼はもう、あくびをしてもよかつた。煙草をつけて、思ひきり、すひこんでみることもできた。
「信ちやんは自分の絵を覚えてゐるだらうか。僕は妙に忘れないね。あんまり平凡すぎるからだよ。色も形も、そして、作者の語つてゐる言葉もね。歪みといふものがないのだ。信ちやんは好んで二十ぐらゐの娘をかいたね。洋装だの、和服だの、そして、たぶん、裸体はなかつた筈だ。あんまり平凡で、常識的すぎるのだもの。然し、だん/\分つてきた。信ちやんの絵はお喋りではない。好奇心がないのだ。ところが外の連中は、たとへばうちの素子のやうな常識的な女でも、ごて/\とお喋りで、好奇心ばかりの絵をかくのだね。別段その絵に作者の夢が託されてゐるわけでもない。架空な色彩の遊びがあるだけなのさ。信ちやんにはその架空な遊びが必要ではないのだね。むしろそれが出来ないのだ。信ちやんは絵の中に好奇心を弄する必要がない。信ちやんは生活上に天性の芸術家だから」
谷村は和かだつた。顔には笑ひすら浮んでゐた。然し彼は信子の顔から注意の視線を放さなかつた。この放心の表情と、肩と胸と腕のゆるやかにだらけた曲線の静かさは素晴らしい。けれども、もつと素晴らしいことが起る筈だ。ある変化が。いつ又、いかにして。その瞬間を見逃すまいと彼は思ふ。然し、彼は猟犬ではなかつた。信子の破綻を全く予期してゐなかつたから。すでに彼は信子の技術を疑はなかつた。そして、その万能を信じたいと思つた。
谷村は遊びたくなつてきた。もつとふざけてみたくなつてきた。言ひたい放題に言つてやりたくなつてきた。それは信子に誘はれてゐるやうでもあつたし、誘はれやうとしてゐるやうでもあつた。
幼い頃、こんな遊びをしたことがあつたやうだと谷村は思ふ。柿の木に登つて、柿の実をとつてやる。下に女の子が指してゐる。もつと上よ、えゝ、それもよ、その又上に、ほら。そして、枝が折れ、地へ落ちて、足の骨を折つてしまふ。それは谷村ではなかつた。隣家の年上の少年だつた。生きてをれば、今も松葉杖にすがつてゐる筈なのである。
この部屋には退屈と諦めがない。それは谷村の覚悟であつた。上へ、上へ、柿の実をもぎに登るのだ。落ちることを怖れずに。落ちるまで。
谷村はこのまゝ、こんな風にして、眠ることができたらと思つた。そして、そのまゝ、その眠りの永久にさめることがなかつたら、と思つた。
「今、僕に分るのは、この部屋の静けさだけだ。世の中の物音は何一つきくことができない」
と、谷村は譫言《うわごと》をつゞけた。
「火鉢の火が少しづつ灰になるものうさまで耳に沁みるやうな気がする。僕に自信が生れたのだ。それはね、信ちやんは如何なる愛にも堪へ得る人だといふことが分つたやうに思はれるから。信ちやんは愛されることに堪へ得る人であり、人を愛す人ではない。そして僕は信ちやんを愛すことに堪へ得るだらう。僕は愛されないことを必ずしも意としない。むしろ僕は最も薄情な魂をだきしめてゐる切なさに酔ひたい。信ちやんの心は冷めたい水のやうだ。山のいたゞきの池のやうだ。湖面を風が吹いてゐる。山のいたゞきの風が、ね。そして空がうつるだけだ。たゞ空だけが、ね。孤独そのものゝ魂だ。そしてその池の姿の美しさ静かさで人を魅惑するだけだ。僕はその山のいたゞきへ登つて行く。弱いからだが、喘ぎながら、ね。ところが僕は奇妙に弱いからだまで爽快なんだ。その他へ身を投げて僕は死にたい」
信子の顔はたうとう笑ひだした。まだ目はとぢてゐる。突然、ぱつちりと目をあけた。そして谷村を見つめた。
然し、再び椅子にもたれて、放心してしまつた。たゞ違ふのは、ほゝゑみのかすかな翳が顔に映つてゐるだけ。
★
不思議な目、それは星のやうだと谷村は思つた。ぱつちりと見開らかれ、見つめ、そして、とぢた。微塵も訴へる目ではない。物を言ふ目ではない。あらゆる意味がない。たゞぱつちりと、見つめる目であるだけ。たゞ冴えてゐた。それだけ。
はじめて谷村も目をとぢた。自分の目が厭になつたからである。けれども、目をとぢることに堪へ得ない。信子の顔を失ふことに堪へ得なかつた。
「信ちやん。何かを答へてくれないか。目はとぢたまゝでいゝ。あんな風に僕を見つめるのは残酷といふものだよ。僕の告白に返事をくれる必要はない。たゞ、何か、言葉がきゝたいだけだ」
信子は然し答へない。そして放心は変らない。笑ひの翳はいくらか揺れてゐるかも知れぬ。いつも何かゞ揺れてゐた。形には見えぬ翳のやうなものが。
谷村は信子に甘えてゐる自分を見つめた。然し、不快ではなかつた。そして谷村は気がついた。信子を少女のやうに扱ふ気持が根こそぎ失はれてゐることに。益々勇気がわいてゐた。それはどのやうな愚行をも羞ぢない、如何なる転落も、死をも怖れぬといふ自覚であつた。
谷村は信子の不思議に薄い唇を見つめてゐた。それは永遠に真実を語ることがない一つの微妙な機械のやうな宿命を感じさせた。信子の鼻は尖つてゐたが、その尖端に小さなまるみがあつた。そこには冷めたい秘密の水滴が凝り、結晶してゐるやうに思はれる。人はそこに冷酷、残忍、不誠実を読みとることも不可能ではない。然し又、幼さが漂ふのも、鼻から唇へかけての線である。信子の顔のすべての感じが薄かつた。だが、やはらかさ、ふくらみに気付くとき、信子の気質のある反面が思はせられる。そこには理想と気品があつた。ある種のものには妥協し得ない魂の高さがあつた。
この女は死に至るまで誰のためにも真実を語らない。肉慾の陶酔に於てすら真実の叫びをもらすといふことがない。信子はその不信によつて人を裏切ることはない。なぜなら、真実によつて人をみたすことが永遠に失はれてゐるのだから。
谷村は公園の鋪道の隅の小さな噴水を思ひだした。彼は山で見た滝の大きな自然が厭らしかつた。河は高さから低さへ流れ、滝は上から下へ落ちる。自然のかゝる当り前さが、彼は常に厭だつた。水は上へとび、夜は明るくならねばならぬ。人工のいつはりがこの世の真実であらねばならぬ。人の理知は自然の真実のためではなく、偽りの真実のために、その完全な組み立てのために、捧げつくされなければならぬ。偽りにまさる真実はこの世には有り得ない。なぜなら、偽りのみが、たぶん、退屈ではないから。
谷村は信子によつてだまされる喜びを空想した。彼自身も信子をだまし得る役者の一人でありたいと希つた。そして彼は、ともかく恋の告白自体がわが胸の真実ではないことを自覚して、ひそかに満足した。所詮、偉大な役者では有り得ない。たゞ公園の鋪道の隅の小さな噴水であり得たら。信子は夜をあざむく人工の光のやうに思はれた。
「僕は信ちやんの自信ほど潔癖で孤独なものは見たことがない。芸術は信ちやんには似てゐない。死後にも残るなどといふのは饒舌なことだ。慎しみのないことだよ。死ねばなくなる。死なゝくとも、在るものは、失せねばならぬ。僕がこの世に信じうる原則はそれだけだから」
谷村は自分の言葉に虚偽も真実も区別はなかつた。彼は自分を突き放してゐた。突き放すことを自覚する満足だけでよかつた。
「信ちやんは、たぶん、自分以外の何人をも信じることはないだらう。信ちやんは永遠を考へてゐない。信ちやんは消えうせる自分を本能的な確信で知つてゐる。哲人たちが万巻の書物を読みその老衰の果てに知りうることを、信ちやんは生れながらに知つてゐる。昔の支那の皇帝が不老不死を夢みたやうな愚を信ちやんはやらない筈だ。信ちやんは現実的な快楽主義者ではないからだ。信ちやんは常に犠牲者だから。生れながらの犠牲
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