のために、他の一切をすてゝ顧みない力が宿つて欲しいのだ。僕はすこしムキになりすぎてゐるやうだ。つまり僕の心がムキでないから、ムキな言葉を使ふのさ。僕は肉体力が弱すぎるから、燃えるやうな魂だけを感じたい。肉体よりも、もつと強烈な主人が欲しい」
喋りながら、断片的な色々の思ひが掠めて行つた。たとへば、退屈といふこと、自己誇張といふこと、無意味といふこと、本心の狙ひから外れてゐるといふこと、自己嫌悪といふこと、もう止したい、眠つてしまひたいといふこと。
けれども、それらが信子の顔と姿態によつて一つづつ吹き消されて行く快さを谷村は覚えた。それはその快さを自ら納得せしめるための彼自身の作意ではなかつた。想念が信子の顔と姿態に吸はれて掻き消えて行く。いつも意識に残るものは、信子の顔と姿態がすべてゞあつた。
それも媚態の一つだと谷村は思つた。最も人工的な、ある技術家の作品だつた。谷村の忘れ得ぬ驚きが一つある。それはその瞬間には気付くことができなかつた。気付き得ぬところにその意味があるのだから。
信子はいさゝかも驚かなかつた。谷村の唐突な口説が始められた瞬間に於てすらも。素朴なもの、無技巧なもの、凡そいかなるかすかなぎごちない気配をも窺ふ余地がなかつた。いつかうつとりと、又、漠然と、放心しきつてゐるのみである。いつか起るかも知れぬ素子の破綻に就いて谷村が不安をいだく必要もなかつた。
なぜ今まで口説かなかつたの。いつでも遊んであげたのに。さういふ意味があるやうな気がする。然し、さういふ形はどこにもなかつた。たゞ、すこしも怖しくないだけだ。すべてが赦されてゐるやうだつた。
★
谷村は落着いた気持になつた。今までも落着いてゐたつもりであつたが、まるで違つた落着きが入れかはつてゐるやうな気持であつた。あせりたい心、あせらねばならぬ思ひがなくなつてゐた。彼はたゞこの部屋の波にたゞよふ小舟のやうな思ひがした。やがてどこかの岸へつくだらう。南の島だか、北の涯だか。
彼はもう、あくびをしてもよかつた。煙草をつけて、思ひきり、すひこんでみることもできた。
「信ちやんは自分の絵を覚えてゐるだらうか。僕は妙に忘れないね。あんまり平凡すぎるからだよ。色も形も、そして、作者の語つてゐる言葉もね。歪みといふものがないのだ。信ちやんは好んで二十ぐらゐの娘をかいたね。洋装だの、和服だの、そして、たぶん、裸体はなかつた筈だ。あんまり平凡で、常識的すぎるのだもの。然し、だん/\分つてきた。信ちやんの絵はお喋りではない。好奇心がないのだ。ところが外の連中は、たとへばうちの素子のやうな常識的な女でも、ごて/\とお喋りで、好奇心ばかりの絵をかくのだね。別段その絵に作者の夢が託されてゐるわけでもない。架空な色彩の遊びがあるだけなのさ。信ちやんにはその架空な遊びが必要ではないのだね。むしろそれが出来ないのだ。信ちやんは絵の中に好奇心を弄する必要がない。信ちやんは生活上に天性の芸術家だから」
谷村は和かだつた。顔には笑ひすら浮んでゐた。然し彼は信子の顔から注意の視線を放さなかつた。この放心の表情と、肩と胸と腕のゆるやかにだらけた曲線の静かさは素晴らしい。けれども、もつと素晴らしいことが起る筈だ。ある変化が。いつ又、いかにして。その瞬間を見逃すまいと彼は思ふ。然し、彼は猟犬ではなかつた。信子の破綻を全く予期してゐなかつたから。すでに彼は信子の技術を疑はなかつた。そして、その万能を信じたいと思つた。
谷村は遊びたくなつてきた。もつとふざけてみたくなつてきた。言ひたい放題に言つてやりたくなつてきた。それは信子に誘はれてゐるやうでもあつたし、誘はれやうとしてゐるやうでもあつた。
幼い頃、こんな遊びをしたことがあつたやうだと谷村は思ふ。柿の木に登つて、柿の実をとつてやる。下に女の子が指してゐる。もつと上よ、えゝ、それもよ、その又上に、ほら。そして、枝が折れ、地へ落ちて、足の骨を折つてしまふ。それは谷村ではなかつた。隣家の年上の少年だつた。生きてをれば、今も松葉杖にすがつてゐる筈なのである。
この部屋には退屈と諦めがない。それは谷村の覚悟であつた。上へ、上へ、柿の実をもぎに登るのだ。落ちることを怖れずに。落ちるまで。
谷村はこのまゝ、こんな風にして、眠ることができたらと思つた。そして、そのまゝ、その眠りの永久にさめることがなかつたら、と思つた。
「今、僕に分るのは、この部屋の静けさだけだ。世の中の物音は何一つきくことができない」
と、谷村は譫言《うわごと》をつゞけた。
「火鉢の火が少しづつ灰になるものうさまで耳に沁みるやうな気がする。僕に自信が生れたのだ。それはね、信ちやんは如何なる愛にも堪へ得る人だといふことが分つたやうに思はれるから。信ちやんは愛さ
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