ぎやしないかという懸念がありました。
こういう心境をはじめて耳にして面くらわない人が世間にたくさんいようとは考えられませんが、小夜子サンも返答に窮していると、トオサンは苦心のあげく自分の言うべき言葉をさがしまとめて、
「私は自分が卑怯だから、すでに自分の女房と名のつくものに、また自分の子供もある女に、お前さんも遠慮なく間男するがいい、そして私とは茶のみ友達の本当の愛人同士でいようじゃないかということは云いきれないのだね。そう云うべきかも知れないと思うことはあるのだが、どうしてもそれが云えない。それはもういったん世間なみの女房亭主という関係になって肉体の交りも結んで子までできてしまったから云えないのだと自分に云いきかせもしてみるのだが、よくよく考えてみると、みんな私が卑怯のせいだ。卑怯のせいにして、それでカンベンしてもらいたいようなさもしい根性もあるかも知れないが、なんとしても、女房にせいぜい間男しなさいとは云えねえや。なア、小夜子サン。だけど私はつくづく本当の茶のみ友達が欲しいんだ。つまり、本当の愛人が欲しいんだよ。女房はもっと年をとってからでなくちゃア本当の茶のみ友達になってくれる見込みはなし、私はもちろん気長にそれを待つツモリではいたんだが、小夜子サン、あなたがセラダというバカな愛人をつくったものだから、私はたまらなくなったんだ。肉体なんざアつまらねえものだから、セラダにでも悪魔にでもくれてやっても、それはかまやしませんよ。しかしだね、万人が羨み仰ぎみるようなその肉体をあのセラダのような奴にくれてやる気になるぐらい勇気のあるあなたなら、あなたの魂の方をこの無学のオイボレにくれるだけの勇気だってありやしないかと――そこは助平根性だよ。私もついフラフラと――イヤ、フラフラどころか実にもう夜の目も寝ないで考えに考えたんだが、そのあげくにとうとう腹をきめて、本日のこのていたらくと相なった次第なんだよ。茶のみ友達になってもらえないかと、こう云うわけだが、もちろん私があなたにふさわしいだけの値打のある男だなぞとは毛頭考えていないのさ。ただもう、セラダの奴が肉体の方の友達に選ばれるなら、魂の方は私でも。もしやにひかされて思い決したというわけなのさ」
トオサンは告白を終って、冬まぢかなころだというのに、ツルリと手でなでて額の汗を払ったそうです。こんなに汗をかくとは思わないので、鼻をかむ汚い手拭しか持ち合せがなかったのでしょう。
「トオサンの気持がむずかしすぎるから、とてもにわかに返事ができなくッてよ。でもね。私、真剣に考えてみるわ」
小夜子サンは長いことかかってアレコレと思案したあげく、ようやくこう返事をしたそうです。
二人は南京街の支那料理屋で五六品のテーブルを食べましたが、食事の間中、トオサンは自分からは一言も物を云いませんでした。そればかりでなく、箸を使うのまでが怖しく不器用になって、はさんだ料理をしきりに皿の上だのテーブルの上へ落してイライラし、とうとう汗をかきはじめて、目をこすったり頭をこすったりするものだから、小夜子サンも見ていられなくなったそうです。そこで自分のお箸に料理をつまんで、
「ハイ」
と云ってトオサンの口へ差しだしたところが、トオサンはそれをくわえようとして、にわかに気が変ったらしく、脣《くちびる》だけで軽くくわえようと変なことをしたものですからツルリとすべって、これも下へ落ちてしまいました。小夜子サンはさッそくもう一ツつまんで差しだしましたが、トオサンはそッぽをむいて受けつけようとしなかったそうです。
トオサンの愛の告白はだいたいこんな次第でしたが、小夜子サンにとっては、これでも相当に深刻な衝撃でした。というのは、小夜子サンがセラダと熱海心中を決行したのはその翌日の出来事で、昏睡中のウワゴトにセラダの名を一度も叫ばず、ただトオサン、トオサンと思いだしたように口走っていたというのです。宿屋の番頭や女中はセラダのアダ名がトオサンと云うのだろうと思いました。トオニイ・タアニイというのもいますから、トオサンという二世がいてもフシギはないと思ったらしいです。熱海の赤新聞にはトオサンなる二世、とでていた由でした。トオサン、トオサンと二世の名をよびつづけ――と記事にでているものですから、この記事を発見した日野は理解に苦しみ、とにかくいそいでポケットの中へねじこみました。八千代サンがこれを読むとモーレツなヒステリーを起すに相違なく、かくてはわが身にも被害が及ぶと見てとったからでした。
しかしこの記事を見せられたトオサンの感激は絶大なるものがありました。人目がなければまさに新聞を押しいただいたに相違ありません。
小夜子サンを東京へ連れて戻ったトオサンは、ウチへ当分かくまうことにしました。そのころウチにはナギナタ二段
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