な意慾を知らなかつた。
思想性が稀薄であるから、戯作性、面白さと、だき合ふことができなくて、戯作性といふものによつて文学の純粋性が汚されるかのやうな被害妄想をいだいたわけだが、本当のところは、戯作性との合作に堪へうるだけの逞しい思想性がなかつたからに外ならぬ。
小説にとつては、戯作性といふものが必要なので、それは小説を不純ならしめるどころか、むしろ思想性を伸展させ、育てるものだ。日本には、さういふ文学の正統、つまり、ロマンといふものゝ意慾が欠けてゐた。つまりは本当の思想が欠けてをり、より高く生きようとする探求の意慾がなかつたから、戯作性との合作に堪へうるだけの思想性がなく、ロマンがなかつたのである。
平野謙が私の小説をデフォルメだなどゝ言ふのは大間違ひで、私ぐらゐ正統的な文学は、むしろ、日本には外にない。私のめざしてゐるものは、ロマン、思想家と戯作者の合作品であり、最も正統的な文学だ。
批評家は、作家のめざしてゐるものを見よ。最高の理想をめざして身悶えながら、汚辱にまみれ、醜怪な現実に足をぬき得ず苦悶悪闘の悲しさに一掬《いつきく》の涙をそゝぎ得ぬのか。然り。そゝぎ得ぬ筈だ。おん身らは、かゝる苦闘を知らないのだから。日本文学の伝統などといふものを表面の字づらの上で読みとり、綴り合せて、一文を草することしか知らないのだから。
島崎藤村や夏目漱石がロマンだなどゝは大間違ひです。彼らは、理想の女を書かうともしてゐないではないか。理想の女をもとめる魂、はげしい意慾のないロマンなどがあるものか。
永井荷風が戯作者などゝは大嘘です。彼は理想の女をもとめてはゐない。現実の女を骨董品の如き好色慾をもつて紙上に弄んでゐるだけで、理想の女をもとめるために希願をこめて書きつゞけられた作品ではない。まだしも西鶴は八百屋お七を書いてゐる。
大袈裟に力む必要もない。大文学、大長篇である必要もない。さゝやかな短篇で、たとへば、メリメの如く、カルメンからコロンバへ、さらに遂には人を殺すヴィナスの像へ、つゝましく、生長しつゞけて行く彼の恋人、理想の女を見たまへ。一生涯、たつた一人の夢の女を育てつゞけ書きつゞけたメリメといふ先生も奇妙な先生だが、ともかく、そこには、常に読者の胸を打つ何かゞこもつてゐる筈だ。それを読み得る人が読み得た幸をうるだけの、それ以外の何物でもないたゞそれだけのものにすぎぬが、所詮文学といふものはたゞそれだけのものなのである。
私といへども、私なりに、ともかく、理想の女を書きたいのだ。否、理想の人間を、人格を書きたいのだ。たゞ、それを書かうと希願しながら、いつも、醜怪なものしか書くことができないだけなのだ。
虚しい一つの運動であるか。死に至るまで、徒《いたずら》に虚しい反覆にすぎないのか。書き現したいといふこと、意慾と、そして、書きつゞけるといふ運動を、ともかく私は信じてゐるのだ。それが私のものであるといふことを。
底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「民主文化 第二巻第六号」中外出版
1947(昭和22)年9月1日発行
初出:「民主文化 第二巻第六号」中外出版
1947(昭和22)年9月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年1月19日作成
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