の手の爪には血が滲んでゐるものだ。
男の作家にとつては、理想の男を人間を書くことゝ同様に、理想の女を書くことが変らざる念願であらう。
然し、日本の文学には、理想の女といふものは殆ど書かれてゐない。要するに、作家の意志が、作家活動といふものが、現実に縛られてゐるのだ。人間を未来に求め、人間をそのあらゆる可能性の上で求め、探り、とらへ、そして、かくの如くに表現することによつて実在せしめようとする悲願を持つてゐないのだ。
いはゆる自然派といふヨーロッパ近代文学思想の移入(あやまれる)以来、日本文学はわが人生をふりかへつて、過去の生活をいつはりなく紙上に再現することを文学と信じ、未来のために、人生を、理想を、つくりだすために意慾する文学の正しい宿命を忘れた。
単にわが人生を複写するのは綴方《つづりかた》の領域にすぎぬ。そして大の男が綴方に没頭し、面白くもない綴方を、面白くない故に純粋だの、深遠だの、神聖だなどゝ途方もないことを言つてゐた。
小説といふものは、わが理想を紙上にもとめる業《わざ》くれで、理想とは、現実にみたされざるもの、即ち、未来に、人間をあらゆるその可能性の中に探し求め、つかみだしたいといふ意慾の果であり、個性的な思想に貫かれ、その思想は、常に書き、書きすることによつて、上昇しつゝあるものなのである。
けれども、小説は思想そのものではない。思想家が、その思想の解説の方便に小説の形式を用ひるといふ便宜的なものではない。即ち、芸術といふものは、たしかに絶対なもので、小説の形式によつてしかわが思想を語り得ないといふ先天的な資質を必要とする。
小説は、思想を語るものではあつても、思想そのものではなく、読物だ。即ち、小説といふものは、思想する人と、小説する戯作者と二人の合作になるもので、戯作の広さ深さ、戯作性の振幅によつて、思想自体が発育伸展する性質のものである。
明治末期の自然派の文学以来、戯作性といふものが通俗なるもの、純粋ならざるものとして、純文学の埒外へ捨て去られた。それは、実際に於ては、むしろ文学精神の退化であることを、彼らは気付かなかつた。
即ち彼等は、戯作性を否定し、小説の面白さを否定することが、実は彼らの思想性の貧困に由来することを知らなかつた。彼等には思想がなかつた。理想がなかつた。人生を未来に托して、常により高く生きぬかうとする必死
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