い。そのころはオリムピックがなかったから仕方がないが、百|米《メートル》からマラソンまで鼻介の記録を破る者は今でもいないというほどのイダ天である。けれども、そう離しては相手がついてこないから、切先から五六寸だけ間をもたせて鬼ごっこをする。名人になると全身に鉄を感じる作用がそなわるから、後を見なくても敵の刀の位置がわかるのである。つまり術と錬磨によって電波探知機を身にそなえているのである。敵はそうとは知らないからもう一息で芋刺しに、と夢中で追う。一人にだけ追わせると他の者が退屈して諦めるかも知れないから、ヒョイと身をかわして横へとび斜にずれては他の者の切先五六寸のところへ背中をおいてやる。もう一息で届きそうだから息がきれて目がくらんで何も見えなくなるまで我を忘れて追うのである。十分もたたないうちに十名の者が完全にへばって、あっちに一人、向うにも一人というように、まるで天からまいたように、八方にのびていたのである。
「ナ。極意というものは、斬る突くだけのものじゃアねえや。術により、錬磨によって、全身に感じる作用がそなわるな。凡人は触れないと分らない。だが、見どころのある者は生れながらにして、三尺から一間の近さまでは物の迫る気配を感じるものだ。これを錬磨によって三間ぐらいまで延すことができるが、オレのは、又、別だな。七間、十間、十五間と感じることができらア。だが十五間も離れたものを感じるのじゃアねえや。迫る物の速力に応じて身をかわす速力の早さが、十五間も距離のある敵の姿を感じることに当るという理窟だな。これぐらいになると、夜道で、弓の矢で狙われようと、鉄砲のタマがとんでこようと、チョイと身をかわしてしまうなア。だが五寸、一寸五分、七分とヒカリモノの距離をこまかく感じ当てるのは、又、甚しくむずかしいや。ハッハッハ」
こう自慢する。奴めは気どって漢語のようなものを使うのである。
「なんだ。この野郎。みんな江戸の話ばッかしらねッか。この町に来てから本気に誰《ダ》ッかが見ていた腕前の話がききてもんだわ。一ツも無かろが」
「ハッハ。この土地には気のきいた泥棒一人いねえや。生れた土地へ戻ってきたのが運のつきだな。江戸で目明の鼻介サマと云えば千両役者と同じように女の子が騒いだものだ」
とアゴをなでている。
そこで城下町の町人たちは、高慢チキな鼻介の野郎め、一度ヒドイ目にあわせて鼻を折ってやりたいものだと考えていた。
★
城下町から三里ほど離れたところに由利団右衛門という分限者《ぶげんしゃ》がいた。どれくらいの大判小判を持っているか見当がつかない。一枚ずつ並べると海を渡って佐渡までとどいて島を七巻きするそうだという話である。代々の殿様は勝手許不如意の時には代々の団右衛門から金をかりる。決して返すことがないが、借金というのである。家老なども密々借りにくることがある。だから別に威張りもしないが、大そう格式を持っている。
団右衛門の愛妾のオトキというのが同じ村に立派な妾宅を造ってもらって莫大な財産を分けてもらったが、年ごろの一人娘がいるだけで、男の子がいない。そこで聟をさがしているが、本宅にくらべれば百分の一ほどの家屋敷財産とは云え、旦那様の来遊ヒンパンな妾宅だから、数寄をこらし、築山には名木奇岩を配し、林泉の妙、古い都の名園や別邸にも劣らぬような見事なもの。お金だって千両箱の五ツぐらいは分けてもらっている。けれども妾宅のことだから、身分のあるところから養子を貰うわけにいかない。
ところがオトキという妾が利巧者で、妾などというものでも人が大事にしてくれるのは旦那様が生きているうちだけのこと。旦那が死ねば妾の子などは村には居づらくなるだろうし、誰も大事にしてはくれない。今は人の羨む金があっても座して食えば山でもなくなるという通りのものだ。オトキはこう考えているから、娘の聟は低い身分の者でタクサンだ。実直で、利巧なところもあって、働きのある男を見込んで聟にとり、城下町へ店でも持たせて、末長く一本立ちができて子孫が栄えるようにさせたいものだと思っている。
ところが娘のオ君というのが年は十六、かほどの美形がお月様や乙姫様の侍女の中にも居るだろうか、居ないであろうというほどの宇宙的な美人である。実直で、利巧で、働きがあれば、藪神の非人頭段九郎の配下の者でも聟にとるそうだ、という噂がひろまったから、近郷近在は云うまでもなく、遠い他国の若者に至るまで、意気あがり、心の落ちつかざること甚しい。ために十里四方の若い者は各々争って働きを誇り、怠け者が居なくなったというほどの目ざましい反響をよんでいる。
ところが目明の鼻介の野郎が三里の道を三町ほどの速さで歩いて、団右衛門の妾宅へ毎日のように出入りしていることが知れたから、若い者から年寄
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