ソッとぬけだして、自身番へ駈けこむ。これはもう鼻介でなくちゃアいけねえというので、真夜中に叩き起されて、十手をチョイとお尻の方へ落し差しにして、でかけた。雲をつくような浪人が三人、主人の枕元へ刀を突きつけて、千両箱をださせているところだ。へ、今晩はと部屋へはいって、
「千両箱は重うござんすよ」
などと云いながら、お尻の十手を手にとって、チョイ、チョイ、チョイと三人の腕や背や胸をつくと、三名の豪の者が麻薬のお灸にかけられたように痺れてしまった。
素人が見たのでは、人間の身体は脆いようでも丈夫なもの。刀で斬れば血がでるが、拳でなぐったってコブはできても、それだけのことだ。ところがあらゆる人間には弁慶の泣きどころという急所が全身に五百六十五もあるのだ。名人がそこの一ツをチョイとやると、天下の豪傑でも麻薬のお灸にかけられて痺れてしまうのである。
凄かったのは、上野のお花見の時。ウーム、見事なものだなア、と鼻介が桜の下を歩いていると、行手に当って花見の人々がワッと逃げてくる。何事ならんと駈けつけると、十一名の悪侍が、美しい娘を二人つれたオジイサン侍にインネンをつけ、果し合いになったのである。悪侍の親玉は手の立つ奴と見えて、片手はフトコロ手をしたまま、片手の刀でジイサンをあしらッている。ジイサンはジタリジタリ脂汗をしたたらせて顔面蒼白息をきらして後退する。他の十名は笑いながらジイサンがナブリ殺しにされるのを見物しているところであった。
「へ。どうも。お待ちどう。しばらくでござんす」
と云って、鼻介が刀と刀の間へわってはいると、悪侍の親玉は目をむいて、
「なんだ。キサマは」
「へ。左様でござんす」
「何者だ」
「へ。豆腐屋でござんす。コンチは御用はいかがで」
「コノ無礼者め」
悪侍の親玉はカンカンに立腹して抜く手も見せずと云いたいが、もうチャンと抜いている。そのままの位置では斬るにも突くにもグアイの悪いところへ鼻介が立っているから、エイッとふりかぶって一刀のもとに鼻介を斬り伏せようとする。とたんに後へひッくりかえって、刀をふりあげたまま、ドタリと倒れてムムムとのびてしまった。鼻介の足が急所をチョイと蹴ったのである。
のこった十名の悪侍が、生意気な下郎めと刀を抜き放って迫ったから、十人にとりまかれては一大事。アバヨ、と逃げる。その足の速さは青梅村の百兵衛だって遠く及ばな
前へ
次へ
全13ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング