コ型は案外非力だそうであるが、女のアンコ型は怪力無双なのかも知れない。アネサの道筋に男が立話をしたり立小便でもしていると、襟首に片手をかけて一ひねりする。すると男が二間ほど横ッチョへ取りはらわれているから、アネサはワキ目もくれずに行ってしまう。ひどく気が短い。しかし、そこの道をあけてくれと頼んで退いてもらうよりも、襟首に手をかけて一ひねりして道のジャマ物を取払う方がカンタンであるから、時間も言葉も節約しているアネサの気持が分らないことはない。だから今ではジャベを省略して、クマとだけ呼ぶようになった。とうていジャベの段ではない。ただのクマだけで通用するというのは、ジャベのクマに匹敵するほどのクマが男の中にもいなかったという事実を語っているのである。
 キンカの野郎は、痩せッポチで弱虫である。日に何度となくアネサに掴みあげられて小荷物のような取扱いをうけても、亭主とあれば是非もない。ここに困ったのは、馬吉とそのオカカで、親ともなれば、倅のアネサにチョイと横ッチョへ取り片づけられて、その運命を自然と見るわけにはいかないらしい。
 キンカの野郎は弱虫泣虫であるが、その母親に当るオカカは気が荒かった。気質の遺伝というものは解しがたいフシがある。オカカはウッカリ言いまちがえて、ガマが蛇をのんだがネ、と言ってしまった時には、自説のマチガイを百も承知の上で一歩もひかずに主張したあげく、各々の手にガマと蛇をつかんできて、ガマの口をこじあけて蛇をねじこんでみせて満足するというヤリ方であった。剛情では村の誰にもヒケをとらないオカカである。
 けれどもアネサの敵ではない。剛情は論争に類するけれども、アネサは全然無口である。そして論争を好んだ報いによって、オカカは四ツにたたまれたり、横ッチョへ片づけられたりするだけだった。そこでオカカは年百年中音をあげているのであるが、誰も同情しない。アネサの怪力を見こんでヨメにもらったのはオカカだからである。キンカの野郎はションボリうなだれて、それだけはカンベンしてくれるとたぶん嬉しく思うだろうと思うというような意味の心情をヒレキしたつもりであったし、その哀れな有様を見ては馬吉も多少同感して、倅のアネサがただの人間の女であっても必ずしも悪くもないように思われる気もしないでもないらしいように思うというようなことを言いかけてみたりした。しかしオカカは馬や牛の代
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