刀の先にくらべると、モチ竿の先には、甚しく変化がこもっているかに見えることである。変化が多いということは、それだけこもった力の量が大きくて深いということでもある。竿の先がピリピリプルンプルンとふるえている。その力をたどって行くとホラブンの手もとへ行くが、その手もとは容易ならぬ変化の量を感じさせるに充分だ。しかしホラブンの目の方により大きな力の源泉がこもっているということが、竿の先の振動から身に沁みて分ってくる。しかし、目を見るヒマがない。ただ、目にこもる力の源泉を感じさせられているだけである。
 ところが力は分派して、もっと別の宙天から、別行動を起して、彼にかかってくるものがある。それはホラブンの絶え間なしにつぶやいている咒文である。
「チョーセイ、チョーセイ、チョーセイ、チョーセイ」
 剣の気合というものは、内にこもった緊張のハケ口のようなもので、剣自体にこもった緊張にくらべると、時には、なくもがなである。有ってよい時も、剣と一如である。
 ホラブンのチョーセイは、そんなに緊張したものではない。まったくイワシ網をたぐっている漁師のカケ声と同じようなノンキなものでしかない。しかし、やがて、気がつくと、そんなにノンキなものだと見ることができなくなっている。モチ竿の先がホラブンの手からくりだしてくる力量であるとすれば、チョーセイは別の力の源泉からたぐりだしてくる両刀使いのようなもので、ハテナと思うと、いつのまにか、チョーセイの咒文にこもる力量に身体の周囲をグルリグルリ、グルリグルリと三巻き四巻き七巻き半もされているということが感じられてくる。
「ヤ、これはイカン」
 敵の力量の大きさが、ハッキリ分った。格段の差が身にヒシヒシとせまる。
 彼は焦って、一気に勝負を決しようと全身の力を刀のキッ先にこめたが、敵にはウの毛をついたほどの隙もない。
 モチ竿の先はビリビリ、プルプルン、ジリジリと目にせまる。チョーセイの咒文が頭をしめつけて、だんだん、しびれてきた。
 石川淳八郎はジリジリと後退した。己れの力が次第にくずれてくるのが分る。それに比して、敵の力が倍加して身にせまってくる。
 脂汗が目にしみる。モチ竿の振動が目の中にくいこんで、彼の目玉をゆりうごかしているような気がする。次第に力がつきて、ついに、全身がしびれ、荒い息使いすら、自分の耳にききとれなくなった。そして、淳八郎
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