のところへ、ヨメも大ぐらい、中風病人が大ぐらいである。中風はよく食うという話であるが、キリもなく食いたがる。カメは怒って、
「この女は化け物だ。毎日ねていて、こんなに食うのは、大蛇の化けた奴だろう。あれぐらい大食いはないということだ。もう、なんにも食わすな」
 病人は立腹して、
「実の母をとらえて、大蛇の化け物などと云うと、バチが当るぞ」
「大蛇の化け物がずるいもんだということは、オレがきいて知っているから、だまされないぞ。しかし、大蛇の化け物が中風で動けないのは、よかったわい。そうでないと、ねているヒマにペロッとのまれるとこだった」
 それから食物をなめるぐらいしか与えないので、病人はまもなく死んでしまった。
 一人へってもカメの空腹はみたされない。食物の不平マンマンであるが、女房に頭が上らないから、
「このコクツブシめ! 腹いっぱい食べたかったら、もっとゼニもらってこい」
 こう怒鳴られると、いばるわけにいかない。
「もっとゼニくれる人って、誰だ?」
「バカヤロー。お前がもっと働けば、誰でもゼニをよけいくれるわ」
「もっと働けというのはムリだ」
「どこがムリだ」
「ムニャ/\」
「ナニ?」
「腹がすいてるから、働かれない」
「このウスノロのコクツブシめ!」
 女房は怒って、ありあわせの棒をつかんでカメの脳天をぶんなぐった。ゲッ! カメは尻もちをついたが、一撃ぐらいで女房の怒りはおさまらない。
「たすけてくれ」
「たすけてくれ、だと? ヒョウロクダマめが。ウヌが腹がへると思ったら、腹いっぱい食えるだけ、ウヌがゼニもらって帰ってこい。ウヌのおかげで、オラの腹までへッているぞ。これが、たすけてやられるか!」
 女房は再び棒をふりあげて、前よりも気勢するどく振りおろした。こはかなわじ、とカメは外へにげた。怒りくるった女房は、カメが外へにげると、益々気勢があがって、追いつめては、なぐりつけ、追いせまっては、突き倒す。井戸端へ追いつめられたカメは、井戸を見るなり手をかけると、中へドブンととびこんでしまった。
「井戸が見つかって、よかったナ。これで、助かった」
 と、カメは井戸の底でよろこんだ。彼は生れつき水の冷めたさというものを、あんまり感じない。奥山の谷川というものは、一分間と足を入れていられないぐらい冷めたいものだが、カメは淵の底へもぐりこんで魚をとることがなんでもない。
 それやこれやで、カメは食慾の一念から自然水にたわむれることが好きになり、水練の技術を独学によって体得したのである。何より必要なのは、長息法。もともとカメは常人の倍の余も息が長かったが、長い上にも、長くもぐっていることができると、収穫はぐんと大きく確実になる。息の切れそうな状態では、つかめる魚もつかみそこなってしもう。
 胸へ吸いこむ息はタカが知れているが、カメは腹へのむ。堅くギッシリと腹へつめる。この息は重い。それをシッカとたたみこんでおいて、その又上に胸いっぱい吸って水中へくぐる。胸の息は軽くて、すぐ切れるが、腹の息は長くジットリしている。この息でゆっくり魚を追うと、魚もこの落ちついた追跡の手ぶりを見て、もうダメだと感じる。魚は大へん感じやすいのである。観念すると、ゲッソリ気力が衰えて、やすやすつかまえられてしもう。
 次に必要なのは、水中の深い底を長くさまよっているための沈身法。人間の生きた身体には浮力がそなわっているから、水底へ沈むためには速力でハズミをつけて、スイスイと水をかき水を蹴っていなければ、水底にいることはできないものだ。何物にも掴まらずに、停止していたり、水の底をユックリ歩くということはできない。
 そこでカメは研究した。常人は人間の常識的な限界に見切りをつけるからダメであるが、カメは必要の一念によって、何物にも絶望しないから、隠された真理を見出すのである。これを奥儀とよんでもよい。
 胸の息をぬくことによって、人間の身体は自然に水底へ沈むことをカメは発見した。しかもカメはうまいことを、すぐ、さとった。胸の息をぬいて自然に水底へ沈み落ちる時には、先ず足の方から下へ落ちて行くものだ。人間の足が頭よりも重いわけはないのだが、胸に空気があるために、足の方に重みがかかって、足の方から沈む。胸の空気がなくなるにつれて、だんだん水平に沈むことになる。
 つまり、胸の空気の加減によって、人間は水底へ沈んで直立することもできるのである。直立することができれば、歩くこともできる。
 沈身法の奥儀は、まず第一に、胸の軽い息をぬいて、水中へ沈む。第二、軽い息の出し加減によって直立する。第三は、そこで腹の底へギッシリたたんでおいた重い息をジリジリとなめながら、静かに水中をさまよって、水底ならば安心と心得ている魚をつかまえる。魚は水底を安住の地と心得、敵が襲ってきても
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