カメが、再び腹をさすり、まず平息をととのえ、心機熟して、慎重に長息法を用いているをジッと見つめて十兵衛は感きわまってしまった。
このような息のたたみ方があるということを十兵衛は今まで気がつかなかった。しかし水中に半生をささげた十兵衛である。カメの長息法を熟視すれば、それがまさしく極意の仕業であり、人間にもそんなことができる名人がありうるという可能性はハッキリ身にしみてくるのである。
再びカメの目が没し、額が没し、頭が没してしまうと、その絶対速度に神気を感じて、十兵衛は思わずブルブルッとふるえてしまった。
彼は殿様の前へにじりすすむと平伏して、ハラハラと涙を流して、
「殿。十兵衛は不覚でござった。カメ殿こそは天下一の名人でござる。かほどの名人がおわすものを、身の未熟を知りも致さず、今日に至るまで殿の寵に甘えたわが身が羞しゅうござる。拙者本日よりカメ殿に弟子入り致し、せめて神技の一端を会得したいと存じまする」
そしてカメが水から静々とあがってくると、十兵衛はその水際へ狂気の如くに駈けつけて、カメの膝下にひれふし、
「おお、わが師」
と叫んだまま、地に伏して、しばし身動きもしなかった。
こうしてカメは、水泳指南番として、召抱えられることになった。誰よりよろこんだのは、十兵衛であった。カメはサムライの行儀作法が窮屈だから、甚しく喜ばなかった。しかし、彼が我慢したのは、メシがタラフク食えたからである。
カメは五頭亀甲斎魚則といういかめしい姓名をもらった。
禄高は五石二人扶持《ぶち》という指南番にしては甚しい小禄であるが、オカへあがるとバカであるから、領下の民にサムライをバカにさせる気風をつくってはこまる。そこで源左が、
「カメはミソ漬けのムスビを腹いっぱい食えばいいのだから、五石二人扶持でタクサンだ」
と、きめてしまったのだそうである。
カメは扶持に不足はなかった。それに川へ稽古にでかけさえすれば窮屈な御殿づとめをはなれることができるから、サムライの生活をいとわないようになった。
そして、厳寒をのぞいて、たいがい川へ稽古にでかけて、御殿づとめを怠けていた。だから好んで弟子になる者がない。ただ十兵衛だけが益々よろこんで、寒中でもカメの後につきしたがって、稽古を休んだことがなかった。
十兵衛がカメから最初の稽古をうけたとき、カメが長いこと考えて、第一に教示
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