《しようよう》を受け、いろいろ激励を受けた。私が文学の先輩に会つた最初の日である。
 私の知る限りでは文科時代が牧野さんの一番飲み歩いた時代で、私達のほかに河上徹太郎・中島健蔵・佐藤正彰・三好達治そのほか嘉村礒多が時々加はり一言も喋らず隅に坐つてゐたりした。酒も亦牧野さんの人生の一設計で、彼は「飲み助でなければならなかつた」けれども、飲み仲間では誰よりも酒に弱く、酒が時々きらひですらあつた。
 その頃も牧野さんの神経衰弱が始まつてゐた。牧野さんの神経衰弱は奥さんのヒステリイをともなふのが例で、普段はストア派の牧野さんが神経衰弱になると小説を創るにも苦吟するやうになり、従而《したがつて》彼の人生の設計を深刻化し立体化する必要にせまられる。彼は女に「もてたかつた」し、又「もてなければならなかつた」。そして「仇心をもやさなければならなかつた」。文学の苦吟が深まると、彼は奥さんの前ですら「芝居ができなくなり」むしろ決して大胆に恋愛をしたり情婦をつくつたりすることのできない彼は、内心の慾念を恰《あたか》も現に実行しつつあるかのやうな芝居すらしなければならなくなる。彼は意識上にとどまる慾念すらあざむくことができないのである。彼の文学が意識上に夢の人生を設計しつづけたことを思へば、意識上の姦淫が実人生に混線し混乱する度合ひは、俗世間の大悲劇に相当する錯雑を極めた難問に匹敵したかも知れないのだ。
 当時牧野さんは恰も某婦人(かりにA婦人とよぶ)と恋愛があるかのやうにその人生を仮構してしまつた。勿論「恋愛したかつた」のも事実であらうが、奥さんを棄ててまで恋愛に没頭できる人ではなく、彼は奥さんを愛してゐた。むしろ唯一人の味方であると信じてゐた。彼の場合、恋愛はできる「筈がない」のである。こんなことは退屈の生むちよつとした悪戯にすぎないので、はたから見てゐる私達にはなんでもないことなのだ。然し神経衰弱になると奥さんもヒステリイになる、争ひのあげく牧野さんは暴力を揮ふ、益々奥さんのヒステリイも強まるといふ状態で、余波をくらつて悪いくぢ[#「くぢ」に傍点]をひいたのが私だ。私は当時蒲田にゐてお互の住所も近かつたが、奥さんは牧野さんに殴られると私のところへ逃げてくる、私は却々《なかなか》応接に多忙で、夫婦喧嘩の仲裁くらゐ味気ないものもあるまいから大いにくさつてゐた。奥さんは私をとらへて牧野さん
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