こゝから事態がどうなつたか、之はもう誰にも分らない。
 話は変つて、信助は新刊書の包みを背負つて、とある病院の外科の診察室へ這入つて行つた。外科の先生の南雲稔は読書家で、新刊の高価な本を無雑作に十冊ぐらゐ買つてくれるからである。
「丁度良いところへ来てくれたな。今晩は手術もないし、今すぐ終るところだから待つてゐてくれ。夕飯を食はふぢやないか。待つのも手持無沙汰だらうから、手製の珍品を御馳走しよう。おい/\。例の品物をとりだしてくれ。患者の方は構はないから三文堂に御馳走を調合してやりたまへ」
 そこで看護婦は二本の瓶と水差をお盆にのせて現れてきた。一本の瓶は薬用アルコールで、他の一本は何とかいふ風薬からこしらへた代用の砂糖水だと言ふのである。はからざるアルコールの出現に、看護婦がまた目盛のあるコップに薬と同じ要領で調合するから、信助はもう飲まないうちから奇妙な気持になつてゐる。見廻す四方は金属の医療器械と鉄のベッドとメスとピンセットの皿であるから、信助の想念はむやみにふくれあがり、表現に窮して全然喋る言葉がない。思ひつめた顔をしてアルコールを飲んでゐる。すると騒々しい物音が起つて、騒ぐ跫音、バタン/\といふ扉の音、金切声が入りみだれて湧き立つてきた。
「こゝは内科ですよ。いけない、/\。そつちは婦人科ですよう。どうしたの。酔つ払つてゐるの。そんなところで上衣を脱いぢやつて、アラ/\第一、この人は靴をはいてゐるよ。あなたはどこが悪いんですか。精神病科はこの病院にはありませんよ」
 と一人の看護婦が叫んでゐるうちに、外科室の扉が押しひらかれて、蒼白な顔をした芥中介がフラ/\と扉につかまつて崩れこんできた。彼の最初に発した声は「やられた!」といふ一語であつた。
 南雲稔はかねて芥中介の詩を愛読して一個の鬼才を認めてゐたから、町では名題のこの悪童を相当なる敬意を払つて遇してゐる。けれども中介は人が才能を認めてくれるとそれが当り前だと思つてつけ上るばかりであるから、稔も一方に腹を立てゝもゐるのである。
「さては喧嘩をしたね」
「ジャコビン党の手先にやられた。あの奴らは暗殺の常習者だから、胸のポケットに毒針まで隠してゐやがる」
 中介は鉄のベッドに縋りついて、全身からの太息をもらした。
「俺の命は明日の朝まで危いのだ。注射をたのむ」
「どこをやられたね」
「身体中を探してくれ。血
前へ 次へ
全13ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング