「面白い? 素晴らしい?」
 私は有頂天に絶叫した。
「河田! もつと/\この道のつきるところまで、この遊びをつづけさせてくれ!」
 それから私達は、同じ悪戯をくりかへして無我夢中の有頂天の中を歩いてゐたのだつた。夢はそこで終る。毎日の悪夢とはまるで別な、私には稀な楽しい夢であつた。併《しか》しあの夢の中でも、私はやはり退屈してゐたやうに覚えてゐる。無理に有頂天にならうとしてゐた。さういふ時に、現実では決して有頂天になれずに益々メランコリイになるのに、あの夢の中ではたしかに有頂天になりきれたやうに自分を誤魔化しおはせることができたやうであつた。そして、たしかに楽しかつたのである。こんな楽しい綺麗な夢は一年に一度ぐらゐしかない。
 そこで私は目がさめると、すぐ河田のことを考へやうと努力したが、結局河田は人の記憶の中では、こんな人生の楽しい姿と一緒に残る人だらうといふことだつた。彼はひどい貧乏であつた。無一物で、ガスも電気もとめられて、食事もできない毎日の中で、恐らく人間としては最も窮乏した生活を暮した男であるが、あそこまで窮乏すると、もう人間は妙にみぢめな暗さからは脱け出してしまふ。尤も河田には人間の底に光があつた。そして逞しい気骨があつた。だからあの男はどん底の中にゐても、決して身辺に湿気といふものを持たなかつた。思ひ出すと懐しい。私の中では永遠に暗くならない。
 私は河田の芸術が好きであつた。あの男は沢山の失敗作を書いた。大部分は失敗の作であると思つてゐる。併し、あの失敗の底に光る高い精神と、輝やく眼光は大成の日の豪華さを思はせたのであるが、今は仕方がない。東京を去る前、大作を志して毎日書き破つてゐたのだが、恐らく大部は書き破られ書き破られて残るものは少いだらうと考へてゐる。由来私は、人の死といふものに冷淡であるが、河田の場合には、殊に今更どう言つてもはじまらないといふ気持が強い。私は何も言ひたくない。私は単に空虚な――恐らくは最も空虚な――「他人の死」に就て、うかつな感慨を洩らす自分が厭なのである。貧困に見えて好まないのである。
 彼は――恐らく誰しもさうであらうが――死ぬことがきらひであつた。死を思ふことも好まない風であつた。併しあの男の風貌の中では、あの男が死別といふ事柄に変つた今日、私の記憶の中で生きる人間の楽しさとなつて残つてゐる。あんなに貧乏であつたく
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