様には分らぬ符号でみんな印してありますから調べてお知らせ致しましょう」
「それは実に幸運でした。私の仕事では、そのようなちょッとしたことから春の訪れを見る例が多いのですよ。最後に一ツだけ、特にメンミツに本当の事実を思いだして教えていただきたいのですが、若奥様とあなたのほか、もしや他のどなたかにふとこの秘密を口外なさったことはございませんでしたか。それを慎重に思いだしていただきたいのですが」
「他に一人だけ、たしかに、私が口外いたしました。私の一子で、杉山一正と申します。手紙とお金との引き換えの使命を無事果すのが不安のために倅に同行護衛をもとめたのが事の起りですが、わが子の自慢とお笑いかも知れませんが、親の慾目ながらも、これにまさる頼もしい男の心当りもなく、秘密をうちあけて裏切ることのない心当りの者も他にないと思い定めたすえに、生活の幅も目の届く幅もせまい女の判断ではありますが、わが子一正にだけは秘密のあらましをうちあけてしまったのです。まさか母を裏切ることがあろうとは信じられませんが」
「杉山一正と仰有るのは、拳法体術の達人と名の高い杉山先生ですか」
「その杉山一正です」
「立派な御子息をお持ちでお幸せですね。先生は御人格の高さでも有名なお方ですね」
日記を調べて脅迫状到着の日附の書附をもらい、最後に小花に会った。これも美人だが、いかにもきかぬ気の、気象のはげしさが人相にうかがわれる娘。元子夫人が直々に、
「結城さまには私から御依頼した筋があるのですから、何事もつつまず御返事して下さるように頼みます」
と言葉をかけてくれたから、対談はスラスラと、彼女の家出に至るまでのテンマツは私がすでにお話し致したところだが、それとほぼ同じことを逐一物語ってくれた。
「あなたが当家へ住みこんだにはワケがあろうと思われますが、それを語っていただけませんか」
「案外単純な理由だけです。自活の必要にせまられたこと、自活の途は女中奉公ぐらいしか思い当らなかったこと、女中になるなら御当家なぞへと思った程度のことからです。御当家の若奥様が私に似たお気の毒なギセイ者のお一人だとは周信さんから承わったことがありましたのでそれが心にしみてもいましたが、どうせ奉公するなら大家にかぎるとの考えで、大家と申せば今までの行きがかりのせいで心当りの筆頭にはまず御当家を思いだしも致しましょう。御当家がたまたま私が身をよせた伊勢屋さんのオトクイ様ときいて、益々なつかしく、御当家ならばね、とふと希望をもらしたのが案外にも本当の話になったのでした」
「御当家へ奉公ののち、周信さんの話の通り若夫人がたしかに彼の昔の恋人だと思い当るようなことが有りましたか」
「それはついぞありませんでした。お側近くお仕えしたことがめッたにありませんでしたし、直接のお言葉をいただく例もまずなかったと申してよろしいほどですから」
「兄上とハマ子さんとは寮へ引き移るまでは特に親しい素振りがなかったのですね」
「主人と女中の関係以上に親しいという素振りはついぞ気づかなかったのです。私のウカツかも知れません。奥の間で私と周信さんの言い争っているのを兄さんと一しょにハマ子もきいたと申しているのですから、私の気づかなかったのがフシギだったのかも知れません」
「その奥の隣室には、兄さんはともかく、女中が勝手にふみこむイワレがないと仰有る意味ですね」
「女中が勝手に来ていけない部屋とは申しませんが、男主人がそこに居ると知りながら、御用でよばれたワケではないのに奥の部屋へ参るのは不審です。ハマ子が単に女中ならば主人の姿を見て振向いて戻ったでしょう。もっとも当日のハマ子はウロウロと面白そうに諸方の部屋々々の騒ぎを見物に歩き廻ってはいましたが」
「奥の部屋まで見物にでかけるような特に変ったことはなかったのですね」
「私と周信さんとが奥の部屋へ姿を消したのに気がついて、それを見物に近づいたのかも知れません。また兄さんも私たちの立聞きが目的かも知れませんね。小心で何もできないお坊ッちゃんに見え、またそのようなフリをして見せることが本能のような兄ですが、実は立聞きだの、隠し物だのと、人の目を盗むことにかけてはとても素ばしこくて天才的な術にめぐまれているのです。その早業を見破られて後の処置にも天分があって無限にそらとぼけて、ただなんとなく顔をあからめて世なれない坊ちゃんらしくゴマカシおおす手法なんぞ、みんな生れつきの本性なんです」
「あなたは日記をつけていますか」
「いいえ。つけたことがありません。ですが特に変った出来事の日附でしたら、日記につけずに頭に記憶しておく程度の代用のハタラキは持ち合わせております」
「例えばこの半年に起った大変化のうちで、どのような出来事の日附を覚えていますか」
「たとえば、小沼家の方々が政子さん
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