当時の女相撲は十五六貫から二十一二貫どまりであるが、女相撲だからデブで腕ッ節の強いのが力まかせに突きとばせば勝つにきまっていると思うのは早計である。斎藤一座は特に四十八手の錬磨にはげませたから、例の遠江灘オタケ二十一歳六ヶ月、五尺二寸四分二十一貫五百匁が歯力ならびに腕力抜群でも、実は西の横綱だった。東の横綱は富士山オヨシ二十六歳八ヶ月、五尺二寸五分、体重はただの十六貫二百である。体格の均斉ととのい、手練《てだれ》の手取り相撲。遠江灘オタケの重量も馬鹿力もその技術には歯が立たなかった。
ところが、抜弁天一座の花嵐オソメとなると、段が違う。十六の年から三十一まで十六年間一座の横綱をはり通して、女相撲の禁止令で仕方なく廃業したが、五尺七寸二分三十二貫五百匁。たしかにデブには相違ないが、骨格も逞しく、胸には赤銅の大釜のみがきあげた底をつけたようで、両の乳房も茶碗をふせたように形よくしまって、土俵姿は殊のほか見事であったという。同輩が押しても突いても動きもしない。あべこべにオソメがチョイと肩を押すと吹ッ飛ばされてしまう。草相撲で名を売った諸国のアンチャン関取もたいがい歯がたたなかったそうだ。
遠江灘オタケは口に二十七貫の土俵をくわえたそうだが、花嵐オソメにとってはそれぐらいお茶の子サイサイであったろう。しかし二俵も三俵もくわえて見せる方法がないから、口の芸当はやらなかった。
その代り、四斗俵を七ツまとめて背にかついだ。四俵をタテに、その上にヨコに三俵のせて縄でからげて背負う。一俵十五貫なら百五貫だが、戦後のカツギ屋風景を見ると小ッチャクて、ヤセッポチのお婆さんやオカミサンが二十貫ちかいような大荷物をかつぎあげてそろって潰れもせずに歩いているから、女の背中と腰骨は特別なのかも知れない。死んで焼くと男と同じタダの白骨には相違ないが、女骨プラス慾念の場合には何かと何かを化合すると特殊鋼ができるような化学作用をあらわすらしいや。
そうしてみると花嵐オソメさんもさほどのこともないかも知れんが、七俵をからげてヤッと背負う。縄を胸にガンジにからめて、両手に一俵ずつのオマケをぶらさげて土俵を五周十周もしてみる。これだけでオタチアイのドギモは存分に抜かれているのだが、その次ある事が余人の及ばぬ荒芸なのである。
土俵中央に立ちどまり、土をふんまえて呼吸をはかり、満身に力あふれて目玉に閃
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