す」
「そのほかに神の矢が事を起したことは有りませんか」
「私どもの知る限りでは加治蛭川両富豪の二件だけです。この二件はひきつづいて起ったもので、これは村の記録がありますから調べれば正しい日附が分りますが、たしか当時はこの郡が熊谷県と申すようになった直後、明治五年のことのように記憶いたしております。各村の社寺等の古文書を差しだすようにというお達しによりまして、庄屋の会合がありました折に、オーカミイナリのことまで考えたものはなかったのですが、蛭川さんがそれを言いだされまして、この機会に天狗の系図を見てやろうじゃないか。オレが直々借り出しに出かけるから、天狗が安心して古文書を差出すように官印のついた借用書を用意してくれというわけで、番頭の定助も従って行ったと思いますが、村役人の従者も二人ついて行ったのです。事面倒と思いのほか、全国的な古文書調査ときいて、天狗は大喜び、進んで多くの文書を貸し渡すような大乗気であったそうです。当人は先々代ぐらいの先祖が七八十年前にこしらえたニセ古文書とは知らずホンモノと思いこんでいるのですな。蛭川さんは自分の思いつきですから、読むのをタノシミにその古文書を自宅へ持ち帰った。蛭川さんの自宅は賀美村ですが、これは現在の児玉郡の東のはずれにあります。オーカミイナリは西はずれの秩父との郡界のところに在るのですから、郡内では一番遠い距離に当るのですが、それを物ともせずに出かけたのだから、大そうタノシミにしておられたのです。朝でて夕方にはもう目的を果して帰ってきたそうですが、蛭川さんの家では村の古老でそんなことの好きな連中が三四人集りまして、暗い灯に文書や図面を額に押しつけるほど近よせて、夜更けまでガヤガヤとたのしんだそうです。それがそもそものタタリの元であったようです。深夜まで客をもてなすための火を絶やすことができなかった。その火の不始末であったそうです。明方にちかく火事となって、大きな建物が夜の明けた時には灰となっていたのです。自宅の火事ともなれば、オーカミイナリの文書など考えていられませんから、そんなものの存在すらも忘れて荷を運びだしているうちに、むろんその古文書と称する物は灰となって地上の姿を失ったというテンマツなのです。これがモンチャクの発端です」
「その古文書は由緒ある物ではなかったのですか」
「田舎者のことですから学者というほどの者はおり
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