ごろで町道場へ通わなかったのはここの清作さんぐらいなものさ。重二郎さんの手並は知らないが、ひところ木場の若い衆が、私も実はその一人でしたが、むやみに腕自慢を鼻にかけたのは、よい図じゃアありませんでしたよ」
新十郎は、なるほど、とうなずいて、
「威勢のよい土地はサスガですなア。ところで、番頭さんは御主人の信用がおありでしたろうか」
「それは、もう、大変な信用でしたよ」
と、保太郎は力をこめて、
「なにぶん、清作さんは病身で家業の方には関係なく、たのむ身内は重二郎さん一人ですから、杖とも頼むようでした。心底から力とたのんで、深く信頼しておりました」
「すると清作さんの仰有ることが嘘でしょうか。信頼できない男だが、身内だから仕方なしに、というようなお話でしたが」
と、こう云いながら、新十郎の見つめているのは二人の女中たちの顔だった。保太郎はそれを見ても生き生きした顔に変化もなく、
「そうですか。清作さんは家業の方に無関係でしたから、父上の気持がお分りにならないところがあるのも当然かも知れません。山キと私どものマル三とは合併して新式の会社をやろうなどゝ話がありまして、山キの御主人と私どもと寄々話合っておりましたが、重二郎さんへの信頼は大そうなもので、会社の方へは清作さんでなく、重二郎さんを代表に入れようとのお考えだったほどです」
「すると、山キのあとは、重二郎さんか、もしくはそのお孫さんがつぐ筈でしたのですね」
「他家のことですから、そこまでは分りませんが、それはやっぱり嫡男嫡孫ですから、山キの後をつぐ者は清作さんかその子供のお考えでしたろう。実は……」
兄は妹の顔色をうかがったが、言葉をつづけて、
「葬式の前日、山キの御主人がこの寮へ見えられたのは、系図一巻を清作さんへ手渡すためだそうで、清作さんとチヨを前によびよせて手渡されたそうですが。――その系図をごらんに入れては」
と、兄にうながされ、チヨは立って、仏間から系図を持参し、中をひらいて示して、
「御自分の次の代に、三代目不破喜兵衛として良人清作、また四代目喜兵衛として、男ならば清作の子喜十郎、女ならば同じく喜久子の配偶。喜十郎、喜久子はいま私のおナカにいる子供なのです。よその系図は過去のものだが、未来の系図は珍しかろう、とお父上は高笑いを遊ばして、この証人のワリ判はお寺の老禅師のものだが、ついでにお寺の過去帳の方にも未来の分を書いておいたぜ、と大笑いでした。葬式のマネゴトをやるについては、これも浮世の仕来《しきたり》だから受けて置けと気軽な様子でお手渡しになったのです」
なんとなく深い意味があるような、ないような、曰くありそうな系図であった。とにかく老禅師に問いただすと、製作のイキサツは分ることだ。新十郎は一礼して系図を返し、
「よく分りました。ところで、そのとき御尊父は寮の車で市川の別荘へ立ち去られたそうですが、ここへおいでの時にも寮の車で?」
「いえ、御本宅のお車です。ですが、そのお車は何かの用でどこやらへ遣わされたようでした。なにぶん葬式の前日ですから、何かと諸方と往復の御用やら何やらがありましたようです」
新十郎はさッきから保太郎の手のホータイに気をつけていたが、
「どうやら、あなたも重二郎さん同様、今も武ばったことがお好きのようで。モーロー車夫と組打ちなさったのではないでしょうな」
と笑いながち冗談を云った。両手の手首から掌にかけて同じようにホータイしている。保太郎もくすぐったそうに笑顔で答えて、
「つまらぬものが目にとまりましたな。どうも恐縮なことで……」
と、ごまかした。
新十郎はあつく礼をのべて、保太郎やチヨにイトマをつげたが、待たせておいた馬車に乗って、お寺へ行く道で、
「三原保太郎さんは両足の足クビにもホータイをまいていましたね。手のホータイは隠せないが、なにも、あの足クビのホータイまで見せなくとも良かったんだなア。あの方は自分の居間に坐ったまま私たちを迎え入れ、帰る時には立って送って下さったが、私たちの後から歩いてくる分には足クビのホータイは見えない。玄関で私たちが振りむいてイトマをつげた時にはあの方々は坐って見送っていましたからね」
虎之介は呆れて、
「それが、どうしたね」
「ナニ、あの人が女中をよびに立ったとき、足クビのホータイが見えたのですよ」
新十郎はそう答えて笑った。
★
老師の話は淡々とあくまでも禅問答めいて呆気ないものだった。
「ああ。あの系図に過去帳のことか。故人がそのときここで書いたに相違ないが、ワシに花押《かおう》をかけというから、ハンコで間に合わせてやったな。お経もあげてやらなかったな。浮世のことはハンコでタクサンのものだ。お経などはモッタイない」
「老師が故人の危険をさとって扉に向っ
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