いた。その近所には海舟の別邸もあり、そこには海舟の娘が住んでいたから、海舟もこのあたりの風土については心得もあるし関心も持っていたのである。三囲《みめぐり》サマ、牛の御前、白ヒゲ、百花園と昔から風雅な土地であるが、出水が玉にキズの土地でもあった。
 その日、清作はふとなにがしの用を思いついて、珍しく深川の本宅へ顔をだした。実に珍しいことであったが、これを虫の知らせと云うのか、このために、彼とチヨは死をまぬがれた。さもなければ、彼とチヨも二人の子供と運命を共にして親子四名全滅するところであったろう。
 彼の帰宅がやや遅れたので、いつものように四名一しょに晩の食卓をかこむことができなかった。子供たちの食慾は父の帰宅を待ちきれないから、チヨはせがまれるままに子供たちに食事を与えた。ちょうど京都の松茸が本宅から届いていたから、これを鯛チリの中へ入れた。父母に先立ってこれを食したために子供たちは落命したが、父母はイノチ拾いをしたのであった。
 この松茸の中に、松茸と全く同じ形の毒茸がまじっていたのである。
 この松茸は京都方面へ出張した若い番頭の二助が買ってきたものだ。喜兵衛は食道楽で、地方出張の番頭たちは必ず土地々々の季節の名物を買ってくるのが山キの家法のようなものだ。秋の季節の京都ならば松茸と、云わずと定まっているようなものであった。
 二助は背負えるだけの松茸を背負って帰ってきたようなものであった。喜兵衛はこれを近隣へ進物し、向島の寮へも届けさせた。
 ところが、ここに奇怪なのは、他家へ進物した中にも、本宅に残った中にも毒茸は存在しなくて、向島の寮へ届けた小量の中にだけ毒茸が混入していたのである。そこで、京都の松茸の売店も、それを買ってきた二助にも罪がなく、松茸の荷を解き、いくつかに分けて、向島へ届けるのはこれと定まってから、それが向島に届くまでの間に何者かが毒茸を入れたのだろうと考えられたが、それが手から手へ渡る途中には怪しい事実を確認することが全く不可能であった。
 山キは喜兵衛の先代が秋田の山奥から出てきて築いた屋台骨であるが、したがって先代以来、ここの番頭は主として秋田生れの者を使っていた。
 まず大番頭は、先代が秋田から連れてきた番頭の二代目で、重二郎と云う。元来、遠縁に当る家柄の者で、姓も同じ不破である。重二郎は当年三十七。これからが分別盛りで、手腕の揮いど
前へ 次へ
全35ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング