おりますので、克子さまの手にあまる場合には最悪の事態に至りますのでなア」
「最悪と申しますと?」
「まことに申上げにくいが、兄上様がかように刀をとって暴れられては致し方ございませぬ。精神病の医師に見せて、場合によってはカンキンも致さねばなりませぬ」
 克子は全身の感覚を失うように思った。ようやく我にかえったが、混乱はうちつづくばかりであった。怖しいことだ。兄が精神病院へ入院すれば、兄に弟も子もない大伴家はどうなるだろう?
 いま、自分に課せられていることは、なんと重大な、また残酷なことであろうか。死せる父よ母よ。兄とわが身の上に宿りたまえ。つつがなく当家を守護したまえ。
「では……」
 克子は思い決して一礼し、しッかと力をこめて、兄の部屋の扉に向って進んだ。

          ★

 病床の兄はねむっていた。起してはなるまいと思い、跫音を殺して、ようやく枕元の椅子にたどりついて腰を下して、さて途方にくれた。
「なんておやつれになったのだろう」
 思わず溜息がもれた。婚礼の三日あと、良人とともに挨拶にきたときは、こんなにやつれた兄ではなかった。それからわずか十数日で、頬の肉はゲッソリ落ちて、手は骨だけのように小さく細くなっているではないか。
 克子は兄の寝顔を見つめて、悪夢を見つつある思い。どれぐらい坐っていたか、それも判じがたいような悲しさであった。せいぜい三十分ぐらいのものであったらしい。兄は目をさました。兄の目が克子を見つめてまだいぶかっているうちに、
「克子です。御気分はいかがですか」
 顔をよせてニッコリ笑いかけると、宗久はジッとみつめて、うなずいて、
「克子か。そうか、会いたかった。ここは、どこだ?」
「ここはお兄様のお部屋です」
 宗久は何か寝床の中を手さぐりしていたが、首をふって、
「ウソだろう」
「ほら、あたりをごらんなさいませ。いつもと同じお部屋よ。天井も、寝台も、壁も」
 宗久の目はやや光った。
「バカな。同じ物はいくつもあるのだ。同じ部屋をつくるぐらいはワケがないことだ。オレが抱いてねたはずの刀がどこにもないではないか」
 克子はハッとした。静かに立ち上り、フトンの中をたしかめ、寝台の下や四囲を改めたが、見当らなかった。すでに叔父たちが取りあげて隠したのだろう。それはすぐに思い当ったが、それをどのように説明すべきか、克子は時間をかせぐために空しく探していたのである。
 克子は椅子にかけて兄の手をとり、
「お兄さま。どうして刀などが御入用なのでしょうか。そのワケを克子に教えて下さいませ」
「ここにはお前のほかに誰もいないね」
「おりません」
 宗久は目をとじた。総てがメンドウくさいのか、自分で何か確かめる様子も表わさない。さればとて、さッきの疑念が納得できた様子もない。彼は甚しくものうそうに目をとじたまま、
「オレはお前だけ信じているよ。こうして目を閉じていると、お前が見えなくなる。けれども、そこにいるのは克子だと思うことができる。何も見えなく、信じることができるほど静かなことはないなア」
「それはどのような意味なの? そのワケを教えて下さい。お兄さま。何か御心配がおありではございませんか。克子がお役に立ちますなら、どのようなことも云いつけていただきとうございます」
「まア、まて。いそいでも、なかなか分るものではない。オレにもオレのことすらも分らない時がある。信じられない時がある。三位一体という言葉があるが、あの本当のワケはどうやら分りかけたのかも知れぬ。人間は三人ずつ一組の人間らしい。一人の人間が三ツの顔と体をもっているらしい」
 ああ、兄上はやっばり狂ってらッしゃるのか。イヤ、イヤ。私がそう信じては最後ではないか。何か意味がある。それを判ってあげなければならないのが私の役目ではないか。克子は必死に悲しさをこらえた。
 宗久のウワ言のような言葉はつづいた。
「しかし、オレは一人しかない。そして、克子も一人しかいない。この部屋には、オレが一人、お前が一人しかいない。そして、一人しかいない人間は正しく、信じるに足る」
「人間は誰でも一人ずつですわ」
「そうではないよ。心のネジくれた人間は、心は一ツだが、顔も体も別々にいくつもあるものだ。ちょうど虫のようなものだ。虫は何百匹の同類も一ツのものと変りがない。さすがに人間は、何百ということはないが、一人が三人の顔と体をもっている」
「たとえば、どなたが、そうでしょうか」
「克子よ。お前の目にはまだ分るまい。たとえば、大伴晴高と須和康人と久世喜善が実は一人の人間だ。そして……」
 宗久はやゝ口ごもった。そして、やゝ言いかねる様子であった。心の傷がそこにあるかも知れないと思われるような苦しさが、うかがわれた。
 しかし、宗久は何事もないような顔つきにもどって、
「シノブも一人ではないのだ。ほかに二人のシノブがいる。カヨと、キミが、シノブなのだ。誰にも分るまいが、仕方のないことだ。お前には分らせたいが、まだ、分るまい。だが克子よ。お前だけはオレの言葉を信じてもらいたいものだ。ここに附き添っていてくれると、今に分る時がくるだろう。いつまでもここに居てくれ。オレが眠っている間も、ここを動いてくれるな。オレはお前だけしか信じることができないのだから……」
 こう呟いているうちに、宗久はねこんでしまった。その寝額は、さっきに比べて、たしかに安らかなようだった。
 三人の男が一人の男。三人の女が一人の女。それは、どういう意味だろう。考えただけではとても分りそうなことではなかった。
 しかし、三人の女は一人のシノブだと云ったが、三人の男は一人の誰だろう?
 シノブは、美しく、社交家で、明るかった。彼女がアニヨメとして克子の前に現れたときには、すくなからぬ敬意をいだいたものである。しかし兄の生活は、結婚後、むしろいけないようであった。明るく、美しく、利巧なアニヨメの力でも、兄の性格的な暗さはどうにもならないのであろうか。
 しかし、兄の新婚後、二ヶ月足らずで克子もお嫁に行ったから、兄夫婦の生活の内部のことは深く立ち入って知る機会がなかった。
 克子がアニヨメのことで、思いがけない噂をきいたのは、結婚後のことであった。それをきかせてくれたのは、良人通太郎であった。通太郎の先輩で、海外の視察から戻ってきた八住という若い手腕家が、通太郎の花嫁が克子であると知って、こう語ったそうだ。
「たしか君の新夫人の兄上大伴宗久氏は須和康人の娘シノブさんをめとっておられると思う。私はこのシノブさん父子にはロンドンでお目にかかったことがある。昨年の春ごろのことだから、もう一年半の昔になるが、当時シノブさん父子には影の形にそう如くに常に一人の青年が一しょであった。外務省の俊英で、久世隆光という前途有望な外交官だ。こう云えば御存知であろうが、大伴家の重臣、久世喜善の長子がこの隆光です。須和康人は鉱山業の視察のために娘をつれて渡欧したのだそうだが、ちょうど休暇中の久世隆光が通訳がてら案内に立ってやったというのも、シノブさんの色香にひかれてのことだというが、須和が娘をつれて外遊したのも、娘の色香でいろいろの便宜を当てにしての算用らしいな。とにかく、隆光君とシノブさんとの交情は我々在欧の岡焼き連のセンボーの的であったよ。シノブさんは昨年の暮に帰国した。と、隆光君も今春、外国勤務をとかれて帰国した。上官に頼みこんで内地勤務にしてもらったのだそうだが、シノブさんの後を追って帰国したい一心からだという専らの評判だった。ところが、このたび私が帰朝しておどろいた。シノブさんはこの初秋に大伴宗久氏と結婚したではないか。表てむきの媒的人は某公爵だが、内輪の取り持ちは久世隆光の父、喜善だというではないか。息子に因果を含めるために帰朝させたと考えても妙な話。大伴家といえば、南国の大藩の宗家。その富は莫大であり、しかも注目すべきことには、大伴家所領の山々こそは日本最大の地下資源の眠るところ。あまつさえ、山師や事業家の暗躍をシリメに、当主大伴宗久どのは書斎の中で居眠り同然の読書にふけって、血まなこの山師事業家どもを全然そばへ寄せつけない。ところで、累代の家老筋たる重臣が主家のために特に取りきめた縁組にしては妙ではないか。世に金権結婚と称する通り、華族が金持と縁を結ぶことはある。なるほど須和康人は金持には相違ないが、大伴家は華族ながらも特別の大金持ち、須和康人の富も遠く及ぶところではない。金権結婚と云いたいが、これでは話がアベコベだ。大伴家累代の重臣が縁組をすすめるならば、五摂家の姫君などが、いかにも然るべきところであろう。このへんの話がまことに奇怪で、アベコベだとは思わないかね」
 宇佐美通太郎は小大名の子息であるが、バカ殿様の生活が生れつき性に合わないスネ者で、大洋にあこがれ、航海にあこがれていた。そこで造船術を学んだが、かく決意したときから、家督は弟にゆずる覚悟であった。そして、克子を迎えたときは目的通り、すでに一介の造船技師として、また航海技術研究家として、ただの市民になっていた。先輩は話をつづけて、
「なア。宇佐美君。貴公は世間の噂を御存知か。久世喜善が克子さんを貴公の嫁御に選んだのは、貴公が大名の嫡流のくせに、名誉も金もいらぬという、妙な気骨のあるところが気に入ったせいだと云うぜ。まったく、当節カネや太鼓で探してもオイソレとは見当らない妙な気骨だて。妹の嫁入費用で当主の財産を減らしたくない家老のメガネにかなうのは尤も千万だ。若年ながらも、すでに造船航海術の英才。それ以下におちぶれることはなかろうし、おちぶれても嫁の実家の財産を目当てにするような貴公ではない。久世喜善は目が高いというもっぱらの大評判だぜ」
 まったく、世事にはうとい通太郎であった。八住にこう云われてみると、それまでなんの気なしに聞き流していた人の言葉に二三思い当ることがある。また、その後も同じような噂をチョイ/\耳にしたが、今度は下地ができているから、人々の遠まわしの言い方もよく意味が分る。なるほど。義兄やオレの結婚について、世間ではそんな噂があるのか、と思い当った。そこでこの話を克子にきかせた。
 克子もむろん初耳であった。深窓の娘にそんな噂はとどかなかったし、兄の結婚についても、シノブを一目見て舌をまいて敬服した克子であった。西洋で智徳をみがいた天下の大令嬢と身辺の者どもが噂するのをきき知っていたから、その実物のまさにさもありぬべきキラビヤカな立居振舞を見ては、さすがに大したものよと舌をまくばかりで、その他のことは考える余地もなかった。生れつき虚弱で、社交ぎらいで、ただ書斎の虫のような兄にはちょッとツリアイがとれないようなヒケメさえ感じたほどであった。
 しかし、大藩の当主としては陰鬱で風采の上らぬ宗久であったが、その学識は彼を知る者の絶讃せざるなき有様で、学問は名も金もいらぬ者にしてはじめて深く正しかるべし。これを大伴宗久に見るべし、と友人逍遥が言ったという。彼は古代の史実や風俗等について宗久に教えを乞うていたそうだ。奇しくも宗久と通太郎とが、名も金もいらないという同じ鑑定を得ていたのである。
 結婚前の宗久は単に書斎の虫であった。明るいところはなかったが、静かで落着いた毎日であった。
 ところが、新婚後の宗久は、昔ながらの書斎の生活が次第に乱れているようだった。結婚前には明るくはないが、自然で、安静なものに見えたのに、今では何かのために苦しみ、何かを遁れたいような苛立たしいカゲリや、いたましい暗さがあった。
 もともと克子の部屋は宗久の書斎から遠く離れていたが、彼の結婚までは気の向いたとき兄の部屋へ自由に出入できたのである。しかし、新婚後は、自由に出入もできない。別に禁ぜられたわけではないが、兄の書斎の隣室も、寝室の隣室も、その他の多くの部屋部屋がシノブの居間や化粧間や応接間や寝室などに飾り代えられ、それにつづいてキミ子にカヨ子という二人の侍女の部屋があった。この侍女は宗久とシノブの二人につきそって身の廻りの世話をやき、その下にスミと
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