くみ、シサイあって来駕光臨の栄をたまわった以上は、克子が血肉をわけた唯一の妹で、来駕光臨のシサイに対して申立つべき異議を胸に蔵していても、申立てる機会がないのは当然だった。彼女の異議を予期している貴族も博士も従者もいない。この威風堂々たる大訪問を恭々しく迎える当然きわまる附属品の一ツであるという外には克子の姿に意味も存在も認めた者がなかったのである。
威風みつるが如き大鑑定の現場に於ては、被鑑定人のたった一人の血をわけた妹が人々の蔭に小さく身を隠すようにして見ていることすら、貴族の慣例に反するようなウロンな眼で見られなければならなかった。
克子のマゴコロの看病によってのみ心の安らぎを得てようやく快方に向いつつあった宗久は、誰かの鬼の手で叩き起されて――それが誰の手であっても、克子以外の手はみんな一様に鬼の手にしか思えなかったが――エンマの庁へひきだされてきた。
「宗久どの。この者はそなたの何者に当るお方でござろうかの」
こう問いを発したのは晴高叔父であった。ズラリと威儀高らかに控えているエンマたちの前にでて、たッた一人ウロウロしているのは晴高だけであったが、こうタクサンのエンマが居流れている前で誰一人としてうろたえる者の姿が見当らなければ、それこそ地獄絵図の何倍も怖しいものであったろう。なぜなら、それらは本来冷血な鬼の姿ではなくて人間の姿であるし、引きだされた人は彼女のただ一人の兄なのだ。
この者がそなたの何に当るか、と指さされたところには、白衣の洋装を身につけたシノブ夫人が立っていた。
女が美しいということは、男のいかなる威畏にも匹敵して劣るところのないものだ。シノブ夫人はエンマの法廷には不案内な外来者のようであったが、たまたま天女が地上へ迷い降りて、ここへ引ッ立てられてきた程度の外来者のようであった。白い裳をひき、一見天女の姿によく似て、まぶしく見えた。
彼女は晴高が自分を指さしていることも、指さすにつれて自分の良人が自分を見つめているであろうことも、超然として無関心のようだった。たぶん、この外来者は人間の言葉を知らないのだろう。さもなければ、良人の妻たる者を指さして、これはお前の何に当る者だ、という奇怪な訊問の対象にされているのに、超然としていられるものではない。
克子は見るに忍びぬ兄の姿を必死に追うた。兄は無礼な質問に答を拒むかも知れないが、拒んだところで当然ではないか。しかもたったそれだけで、妻の顔も見分ける能力を失った病人だという悪い判定を下されはしないか。克子はそんなことを考えて、胸を痛めた。
兄は己れの妻の方を見ていたが、何か屈辱を感じたような複雑なカゲリが走った。しかし、その屈辱の内容については、兄以外の誰にも、むろん克子にも分らない。そして、兄がいま苦しめられている何かが甚しく複雑な何かであるということだけが確信できるだけだった。
兄は叔父の背後に威圧するように控えている多勢のそして無言のエンマ達を吟味した。
兄はエンマの誰かに顔見知りが居るだろうか。書斎に閉じこもっているばかりで、華族同士のツキアイなどに出たこともなく形式的な式や賀宴にはたいがい叔父や久世喜善が代理ですましているから、ひょッとすると親族代表のような大殿様の顔なぞも忘れているかも知れない。
エンマの顔を一ツずつ吟味して兄が何を発見したかはその顔に表れなかったが、兄は何かを会得した如くに素晴らしい顔附をした。そして、その顔附の表した意味は、この人は聡明である、ということだけのように見えた。つまり、この人はエンマたちの威圧に押されもしないし、反抗的に苛立ちもしなかったのだ。そして、それら外部的な事柄にこだわらずに、問われたことに正しく答えれば足りる、と判断したことを表していた。
これにまさる聡明な判断があるものではない。しかも、問いつめられ、威圧されてそうなったのではなく、自分で静かに吟味して、冷静にだした結論だ。この場に処してかく為しうる人は驚くべき聡明冷静な人であろう。およそ狂人の片鱗だにも見られはしない。
「偉なる人、聖なる人、兄よ」
克子は叫びたいと思ったほどだ。
兄は静かに質問に答えた。
「この者は、妻シノブです」
すこし、からだがふらついていた。それは病臥の果てであるから、当然のことである。そして、声は総ての耳には聴きとれなかったほど低かったが、低声は兄の生れつきのものでもあるし、衰弱によって甚しくもなっていた。他に異状はない。真実を答えれば足りると信じ、そしてただ真実を答えた平静さ。これ以上に聡明な人為《ひととなり》と品格を表わす例が他にありうるだろうかと克子は感動して見まもったほどであった。
ところが、意外にも、叔父は同じ物を指して、また、訊ねた。
「あれは、そなたの何者でござるか?」
しかし、
前へ
次へ
全22ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング