だかなければ、理解に苦しみます」
 宗久はそれを無表情にきき流して、暫し答えなかったが、相変らず目をとじたままで、
「君はエジプトのナイル河が海へそそぎ、その砂が海の底をわたって、海を距てて積みなしたところ、アラビヤの沙漠の辺にある国の名を知っているか」
 前説明が長くて奇怪であるが、要するにアラビヤの国の名を知っているか、という意味であろう。通太郎は思いつくままに、
「エルサレム」
「オウ!」
 かすかに叫んで、宗久は大きな目をあいた。通太郎をシッカと見つめて、
「エルサレムだと?」
「ちがいましたか」
 宗久は何事かに落胆しきったようだった。そして大切な物をしまいこむように、実にゆるやかに目をとじた。そして、いたましい声で、呟いた。
「お前たちは、しばらく、立ち去ってくれ。オレを一人にしておいてくれ。オレが呼んだらすぐ来ることができるように、隣りの部屋に待っていてくれ。夜も交替に起きて、オレの呼ぶ声をききもらしてはならぬぞ。オレの頭には、いま波がゆれている。それを鎮めるためには、オレは一人で考えてみなければならぬ。早く行け」
 二人は静かに引き返った。
 隣室には、人々が待っていた。
「どのような様子であったね」
 晴高が待ちきれないように問いかけた。他の人々は、宗久が狂暴にならなかったことがむしろフシギな面持のようであった。
 二人は交々《こもごも》、会談の様子を物語った。朝寝坊のシノブはまだ姿を見せていなかった。しかし、シノブが目をさまして姿を現したことを、物の気配によって、克子は感じた。そして、克子はその方を見た。見返した。しかしシノブの姿はなかった。そこに姿を見せて居たのは、茶菓を運んできたキミ子の姿であった。だが、克子の感覚が狂ったのではなかったのだ。シノブの現れと見た物の気配が、たしかにキミ子の身から発していたのだ。
 それは「黒衣の母の涙」とよぶ独特の香水であった。しかし、コチーのスペシャルというような筋の通った香料ではない。のみならず、非常に高価ではあるが、甚しくインチキな一外国婦人の私製品であった。誇大な広告にも拘らず、一向に広告だけの効能がなくて、一月足らずで夜逃げ同様日本を去ったロッテナム夫人の香水である。彼女が散々の不評に居た堪らず、日本を去ったのは一週間程前の事で、巷を賑わしている話題の一ツであったが、それにまつわる余談の一ツとして、今
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