ふけり、悪い予感をもったのである。
 克子は良人からシノブと久世隆光の噂をきいたとき、まさかと思った。久世隆光は時々女主人の食卓にまねかれていた。才気煥発の談論と、一座の空気とピッタリした親しさ。けれどもそれは久世隆光に限ったことではない。除け者の兄のほかの総ての者がただ一様に一座の空気に親しいものに見えただけのことだ。そのころの克子の目はまだ稚《おさ》なかったのだ。悲しさに曇ってもいた。
「果して兄はこのようになってしまった」
 兄の病みつかれた寝顔を見つめて、克子の胸にはただ苦しくて、救いがたい暗い思いの数々が溢れでてやまなかった。
「なぜ兄はこうなったか? どのようにすれば、失われた心の安静をとりもどしてあげられるのだろう?」
 その目当ては一ツもない。だが、たった一ツ確かなことは、その適任者は地上にただ自分一人しか居ないこと。他の総ての者が自分ほどひたむきに兄の身を思いはしない、ということのみであった。
 そのとき宗久が、ふと目をひらいた。長く克子を見つめていたが、
「お前は誰だ?」
 本当に怪しんでいる声である。ねむる前の兄の言葉がまだナマナマしく耳についている克子はビックリして、
「私です。克子ですわ」
「いつ、来たのだ?」
「私と話を交してから一ねむりなさったばかり。お目がさめたばかりで頭がハッキリなさらないのでしょう。たった四五十分前のことですのに。私に、いつまでもここに居なさい、と仰有《おっしゃ》ったではありませんか」
 宗久は思いだしたようである。けれども、どの程度に思いだしたか、怪しいものであった。宗久は真剣に考えている様子だったが、
「お前は結婚したと思うが、たしか、そうであったな」
「ええ。結婚しました。なんてむごたらしいことを仰有るのですか。たしか結婚した筈だろうなんて。克子のことは、他人の出来事のようにしか頭にとめてらッしゃらないのね」
「イヤ、イヤ。それを咎めてくれるな。オレが総ての物を疑らねばならないのは、誰よりもオレ自身にとって、これほど苦痛なことはないのだからなア。ところで、お前は誰と結婚したのだっけな」
「宇佐美通太郎です」
「そうか。たしかに、記憶している。お前の良人はどんな人だ。悪い奴だろう?」
「いいえ。お兄さまと同じぐらい、立派で正しい心の持主です。そして、勇気があります」
 宗久はカラカラと空虚な笑声をたてた。
「オ
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