る。その何本かを無造作につかみだして平戸久作に手渡したという。
 平戸久作はシナで棉花の買いつけをやって産をなした相当の実業家であるが、それが膝をまげて仕えるからには余程の大物、曲者だろうという臆測なのだ。
 島田幾之進は五十がらみの六尺豊かの偉丈夫。家族は子供二人だけ。上の男が三次郎で、年はハッキリ分らない。なぜなら、これが俗に云う福助、頭デッカチの一寸法師で、三尺あるなしの畸型児だから、見ただけでは年齢が判らない。二十から二十五ぐらいで、どの年齢にも見える時がある。
 ところが妹をサチコといって、これは目のさめるような美少女だった。年は十八。気品あくまで高く、白百合よりも、清く、さわやかである。
 しかるに彼の道場に入門を許された者が、五ヶ年間にようやく十五名である。すくなくとも数百名が入門を志したり、ヒヤカシに出むいたりしたが、その全員が当時十三のサチコの杖に突き伏せられ、噂をきいて他の道場の師範代程度の使い手が一手試合に出かけたこともあったが、サチコのくりだす杖の魔力に打ち勝つことができなかった。
 道場の看板に武芸十八般とある通り、入門を許された十五名は朝から夜まで諸流の稽古に休む間もないほどである。
 彼らは稽古について多く語ることを避けるから道場内の生活はよく分らないが、師を尊敬することの甚しさは門弟一同に共通したものであった。
 そこで世間は取沙汰して、由比正雪の現代版現る、なぞと説をなすものが次第に多くなった。
 由比正雪は天下を狙ったが、島田幾之進は何事を策し、何事を狙うか。馬賊、海賊の手下を養成するか、さてこそ口サガない人々は島田の門弟を指して、
「馬賊の三下が通るぜ」
 なぞと云う者もあるほどだった。時の怪物と目されて、世人のウケは一般によろしくなかった。
 けれども十五名の門弟の数名に近づきを持った人なら、決して島田を悪しざまに言う筈はなかったのである。門弟に共通していることは、彼らが一様にいわゆる豪傑風の武骨者ではないことだ。むしろ豪傑の蛮風から見れば文弱と称してよろしいほど、礼節正しく、常識そなわり、円満温厚な青少年のみ集めていた。したがって彼らの体格は一見弱々しい者が主であった。そして何年たっても武芸者然とはならなかったが、特別な心得の人が見れば、彼らがすでに相当の手練を会得しつつあることが了解し得たであろう。けれどもその特別の心得な
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