キリがなく人声がきこえてくるが話の内容は分らないし、果して酒宴の人声であるか、口論だか交驩《こうかん》だか、そういうこともシカとは見当がつけられない。酔っ払って唄をうたうようなのは一度もきこえなかったが、酒宴の事情が事情だから、唄のないのが自然であろう。もっとも、志道軒ムラクモというその道の専門家がいるから、この人物は親父の死に目やムシ歯の痛む最中でも唄って唄えない仁ではなかろう。左近の声だけは一度もきこえないが、地声が低いからきこえないのが当然だった。
 隣家にあまり険悪な様子もないので、早寝の草雪は自然にねむくなって、いつのまにやらねむりこんで、翌朝、太陽が高くあがるまで目がさめなかった。
 おそい朝食をすまして、ゆっくりお茶をのんでいると、着流しの平賀房次郎が窓の外からヌッと顔をさしこんで、
「相変らず早寝の朝寝のようですなア。ゆうべは珍らしく隣家に多勢の来客があって、おそくまで賑かでしたが、どうも、それで、ちょっと気になることがあってなア」
 草雪はハッとして、
「エ? 気になることがありましたか。それは、いつごろのことで」
「イエ、今のことですよ。三日前から馬丁の倉三君の奉公が終ったとかで、早起きの老人が早朝から馬にカイバをやって、馬小屋の世話を念入りに見ていたものですが、今日はまだ誰も馬の世話をしてやった者がない。馬が腹をすかして羽目板を蹴っているが、早起きでキチョウメンの老人がどうしたのやら。多勢の来客も泊ったようだが、誰か起きてきそうなものですがなア」
 午後になっても誰も起きてくる者がない。妙だというので、二人の隣人が警察へ知らせて、警官とともに、中へはいろうとすると、勝手口も、居間の潜り戸も内からカギやカンヌキがかかっているらしく、外からはあけられない。窓をしらべても、頑丈な格子がはまっている上に雨戸も堅く閉じられていて、猿や猫でも出入できるような隙間がなかった。ようやく勝手口をこじあけて中へはいると、実にサンタンたるものである。
 台所の次の部屋にはミネがノドを突いて血の海へうつぶしてことぎれている。ヒザをシッカとヒモでむすび、自らノドを突いた覚悟の自殺のようであった。
 さて、この部屋につゞいて左近の専用室が二つあるそうだが、出入口は一ヶ所幅三尺、高さが六尺の厚い板戸によって仕切られている。この一枚の板戸以外は厚い壁になっていた。板戸は左近の
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