っと必要なだけであるから、そのときだけ帰郷すれば足るのである。
覆面の祖父は村をでるとき馬にまたがっていた。それは魔王の旅立つように、威あり怖しいものに見えたのである。同じように覆面を胸まで垂れた風守はカゴにのった。そして、あたりの病毒ある風から防ぐように、カゴの窓を下したのである。光子が見た兄は、その旅行のときだけであった。
東京の別荘は、小石川の崖の上の二万坪もある邸内に建物も庭も新しく造ったばかりのものであった。風守のためには別館が用意されていた。それは母屋から遠く離れて塀によって隔離され、まったく別の一戸をなしていた。ウバのヨシエと、老女中の政乃が村に於けると同じように、この別館に住み、風守に侍っていたのである。光子も父母も、母屋に住んだ。
一月ほどおくれて、風守の唯一の友たる英信も上京した。そして、仏教の学校へ入学した。彼は母屋に住まず、別館に一室をもらった。そして殆ど本邸の方には姿を見せることがなかった。暗い秘密の翳を負うた英信は、非常な秀才だということで、その師からゆくゆく天下の大知識になるだろうと高く評されたそうである。
それから六年すぎて光子は十八になった。そして、呪文のような一枝の言葉に、はじめて多久家の暗い怖しい何物かを、身にしみて感じたのである。
★
一枝は水彦の娘であった。長男の木々彦の下に他家へ嫁いだ姉をはさんで、彼女が末ッ子であり、光子と同い年で、同じ学校の同級生であった。木々彦が後嗣の選にもれると、水彦は生れた村にいるのも面白くなく、本家に先んじて東京へ移住していた。彼の住居も同じ小石川ではあったが、かなり本家の別荘からは離れていた。
木々彦は学問を好まず、長唄や踊りなどを習ったぐらいで、それも打ちこんで覚えこむほどの根気がない。何一つ身につぐほど習い覚えたものがなく、二十六という年になった。仕事に就く気持もないし、彼を使ってくれる人もない。だらだらと観劇したり岡場所を漁ったりして通がっているだけだった。
田舎では多久の一族だが、東京では多久家などとはその苗字を知る人もない。おまけに本家とちがって、分家の財産は知れたもの、けっして一生遊んで暮せる身分ではないのであるが、オヤジの水彦がまた世間知らずのバカ者であった。彼は東京へ出ても、多久といえば天下の名門だと思っている。一人ぎめの名門を誰も信用しないから、益々こだわり、益々名門然、殿様然と見せたがる。だから、自分も働いてお金をもうけることをせず、木々彦がグウタラな道楽息子に育ち上るのを意に介せず、名家の子はノンビリとしたい放題、そんなものだと心得ている。そのくせ、内心は何よりお金が欲しい。一もうけしたいのだ。なぜなら、やがて文無しになるのを彼だけは充分に心得ていたからである。
金モウケといっても当てがあるわけではないから、何より残念なのは、木々彦が本家の後嗣になれなかったことだ。弟一家が本家にひきとられ、広大な別荘に起居しているのが残念でたまらない。何かにつけてその反感が言葉にでる。風守が業病にとりつかれたのは天罰だ。昔はそう言いふらしたものだが、今では、土彦の後妻に男子が生れて、もはや風守はキチガイでもないのに座敷牢へ閉じこめられている。それは後妻の子を後嗣にしようという土彦夫妻の陰謀だというようになった。ところが、ヒョウタンから駒がでるとはこのことで、これが真相をついているようなフシもあった。
それをビリビリ身にしみて感じたのは光子であった。少女の霊感と云おうか。世事にうといとはいえ、汚れなき魂の直感であった。光子には思い当ることが多かった。
去年の夏休みに光子ははじめて帰郷した。生れてはじめて邸内の隅々まで歩くことができたのである。彼女は兄の居室を見たときに叫びをあげるところであった。居間へ通じる廊下にはふとい樫の木の格子戸があって浮世の風をふさいでいるばかりでなく、風守の居室そのものが四方厚い壁や樫の木の厳重な格子戸にかこまれた座敷牢であったのである。
光子は思わず身ぶるいしたものだ。座敷牢の内部にはさすがに立派な床の間もあったし、違い棚や押入もあった。風守が育つにつれて用いたオモチャの数々がそっくりあったし、学習した書物もあった。学習の教師は英信の父の英専と、祖父直々であった。その二人のほかに近在に学のある者はいなかった。
風守の習得した書物は初歩から上京に至るまでそっくり積み残されており、風守が自ら手をいれた跡もハッキリ残っていた。彼が上京したときは今の光子と同じ十八であった筈だが、そのころ彼が学んでいた書物はとても光子の理解できない難解なもので、風守の筆跡の見事なことも驚嘆すべきものであった。コヨリでとじた何冊かの稿本があり、そこに風守の自署があって、彼の作った詩文であった。そこに朱筆
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