のことだからである。のみならず、街でよその父母がわが子を呼びすてにするのをきいても、顔があからむような、居たたまらぬ思いに駆りたてられるからであった。まして水彦が長子木々彦を呼びすてにするのをきけば、光子は卒倒しかけるかも知れないだろう。それほどこだわるようになった。
 まるで天才とも言うべき風守をキチガイ扱いに座敷に閉じこめて、それが文彦に本家をつがせる父母の陰謀であるとすれば……イヤ、イヤ。そのような筈はない。文彦の生れる前から、風守は座敷牢に閉じこめられていたのである。村の風説によれば、風守が不治の病気であるために、その生母が自害したというではないか。それに、あの怖しい本家の祖父が、それを黙認しているのだ。父母の陰謀なら、あの怖しい祖父が同意を示す筈はない。祖父自身の意志でなければ、風守を座敷牢に入れることはできない筈ではないか。
 そう自分に云いきかしてみても、それでハッキリ安心するというわけにはいかないのだった。どこと指摘はできないが、なんとなく秘密や陰謀が感じられてならないのだった。可哀そうな風守さま。光子は六年前の上京中の道中に稀に見かけた覆面の風守を痛ましく思いだすのであった。それは宿々の出発や到着時のカゴの出入に見かけただけであるが、覆面のみでなく長い黒マントのようなものをひきずるように身にたらして、人々に抱かれるようにしてヨタヨタと出入するのであった。なんという気の毒なお方だろう。座敷牢へ閉じこめられて黒幕にさえぎられて生活すれば、ヨタヨタするのも当然であろう。生きながら屍のような兄上。母なき人はこのように不幸であろうか。一枝の呪文が耳について離れないのだ。父母の陰謀がある筈はないと否定しながら、安心できない理由はなぜだろう。光子のうちに、光子の疑念が正しいものであったということが、どうやらハッキリしかけたのである。

          ★

 同じ邸内に住んでいても、光子はめったに英信を見かけることはなかった。まれに本邸の会席によばれることがあると、英信はうつむいているばかりで、食事をしているのと、いないのとの相違は、手と口が動いているいないの相違にすぎなかった。
 英信はすでに優秀な成績で学林の業を終り、特に師について更に深い学問を習っていたが、彼は本場の京都へ行ってもっと深く究めたいと志望している由であった。彼は長男ではなかったから寺をつぐ必要はなかった。彼は仏教の学者になって、一生研究に没入したいと思い、特に西洋へ渡って、日本ではまだ未開拓の梵語《ぼんご》やパリー語を学び、原典について究理したいと欲していたのだそうだ。しかし、思いがかなわぬせいか、彼は益々陰鬱で、彼の顔を見かけても、彼の言葉をきくことは全く有り得ないような有様であった。
 ある日のこと、光子が邸内を散歩していると、藤ダナの下にボンヤリ腰を下している英信を見かけた。近づいてみると、膝に本をのせてはいるが、本は閉じられたままで、別に勉強をしているところでもないようだから、光子はふと話しかけたい気持にかられた。
「風守さまは毎日どんな風に暮していらッしゃるのでしょうね。御退屈でしょうに」
 風守の暮しぶりについて好奇心を起すことは、この家の礼儀にかなうものではない。その慎むべきことを、重々承知でありながら、ふと訊かずにいられないほど、光子にとっては風守のことが重大な疑問になっていたのである。彼女は云ってしまってハッとしたが、意外にも、英信は彼に負わされた重大な義務が全く問題ではないかのようにケロリとして、
「あの方は御病気ですよ。助かる見込みはありません。遠からず、おなくなりです」
 こう静かな声で答えた意外さだけでも容易ならぬ思いがあったので、彼の返事の内容については吟味がおくれたほどであった。光子はやがてビックリした。ケロリとして、なんてことを云う人だろう。彼は風守の死を予言しているが、むしろもっと残酷に、彼自身がその死を宣告しつつある地獄の使者のようにすら感じられた。
 風守が大病なら、侍医の良伯が別館へつめかけそうなものだし、祖父や侍女たちの往復もヒンパンで、なにか気配がありそうなものだ。その気配がないではないか。
 しかし、なんの表情もなく、声の抑揚すらもない陰鬱な彼の言葉には、ぬきさしならぬ凶事の跫音《あしおと》が不気味になりつづいているような重さがあった。光子は思わず顔色を変えて、
「御病気って、どんな?」
「そこまでは、知りません」
「遠からずおなくなりですなんて、なぜ、そう仰有《おっしゃ》るのよ」
 英信は顔をそむけて、
「生者必滅は世のコトワリですよ」
 と苦々しげに呟いた。
 光子は思わずカッとして、
「あなたは心底からの坊さんね。世の中をそんな風にみてらして、それで御自分が偉いとでも思ってらッしゃるのね」
 英信
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