ぐ必要はなかった。彼は仏教の学者になって、一生研究に没入したいと思い、特に西洋へ渡って、日本ではまだ未開拓の梵語《ぼんご》やパリー語を学び、原典について究理したいと欲していたのだそうだ。しかし、思いがかなわぬせいか、彼は益々陰鬱で、彼の顔を見かけても、彼の言葉をきくことは全く有り得ないような有様であった。
ある日のこと、光子が邸内を散歩していると、藤ダナの下にボンヤリ腰を下している英信を見かけた。近づいてみると、膝に本をのせてはいるが、本は閉じられたままで、別に勉強をしているところでもないようだから、光子はふと話しかけたい気持にかられた。
「風守さまは毎日どんな風に暮していらッしゃるのでしょうね。御退屈でしょうに」
風守の暮しぶりについて好奇心を起すことは、この家の礼儀にかなうものではない。その慎むべきことを、重々承知でありながら、ふと訊かずにいられないほど、光子にとっては風守のことが重大な疑問になっていたのである。彼女は云ってしまってハッとしたが、意外にも、英信は彼に負わされた重大な義務が全く問題ではないかのようにケロリとして、
「あの方は御病気ですよ。助かる見込みはありません。遠からず、おなくなりです」
こう静かな声で答えた意外さだけでも容易ならぬ思いがあったので、彼の返事の内容については吟味がおくれたほどであった。光子はやがてビックリした。ケロリとして、なんてことを云う人だろう。彼は風守の死を予言しているが、むしろもっと残酷に、彼自身がその死を宣告しつつある地獄の使者のようにすら感じられた。
風守が大病なら、侍医の良伯が別館へつめかけそうなものだし、祖父や侍女たちの往復もヒンパンで、なにか気配がありそうなものだ。その気配がないではないか。
しかし、なんの表情もなく、声の抑揚すらもない陰鬱な彼の言葉には、ぬきさしならぬ凶事の跫音《あしおと》が不気味になりつづいているような重さがあった。光子は思わず顔色を変えて、
「御病気って、どんな?」
「そこまでは、知りません」
「遠からずおなくなりですなんて、なぜ、そう仰有《おっしゃ》るのよ」
英信は顔をそむけて、
「生者必滅は世のコトワリですよ」
と苦々しげに呟いた。
光子は思わずカッとして、
「あなたは心底からの坊さんね。世の中をそんな風にみてらして、それで御自分が偉いとでも思ってらッしゃるのね」
英信
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