ろでは、はじめての旅興行で、大方新品、こんなのは無かったようです。しかし、この型の行李は芝居小屋ではよく使う物ですから、近所の小屋のものかも知れませんなア」
「中橋が芸人あがりであることや、夢之助が倶に渡米した芸人の娘だということは、本当ですか」
「結城新十郎ともあろう物識りが、それを御存知ないとは恐れ入りましたなア。芸人雑記という本の『川富三与吉』の項目を読んでごらんなさい。この警察署の前の貸本屋にもあるでしょうよ」
そこで新十郎は貸本屋からその本をとりよせた。行方不明の中橋英太郎について知る必要があったからである。そこに誌された記事は又もや甚だ意外きわまるものであった。その記事は次の通りである。
川富三与吉。軽跳。明治四年米人ハリマンに招かれて渡米す。一行次の如し。
軽跳。三与吉。妻ハナ。
コマ廻し。松井金次。妻小まん。娘フク八歳(コマの中に入る)ツネ五歳。倅《せがれ》良一当歳。
軽跳。梅之介。手妻。同人妻柳川小蝶。連れ子ヤス五歳。
綱渡。浜作。三味線。妹カツ。カツの娘スミ四歳。
曲持足芸。慶吉。右上乗。三次。後見三太郎。妻ミツ。倅参次三歳。上乗又吉。笛吹。当松。妻ロク。娘アキ六歳。倅国太郎二歳。太鼓打。正一。妻ボン。倅馬吉当歳。
手妻。柳川蝶八。手妻。同人妻金蝶。娘ラク三歳。
四月十一日横浜出帆。追々各地を廻り、同年暮サンフランシスコ興行中、銀主三与吉の家族多勢なるを好まず、演芸に必要なる者を残し、他を船にのせて送り返さんとす。三与吉怒りて銀主を殺害せんとして大負傷を負わしめ彼の地の警官に捕縛せられたるに自殺して果てたり。一同途方にくれたるに、軽跳の梅之介は心ききたる者なれば、新に蝶八を長として一団をくましめ、己れは彼の地の商社に入りて実業を学ばんとす。時に妻柳川小蝶を離別し、かねて懸想せる三与吉の後家をめとりて一団を離る。浜作の妹カツも情を通ぜる仲なれば梅之介を恨み自殺して果てんとして遂げざりしという。梅之介、本名、英太郎、今日中橋商事の社長にして貿易界の一巨材たり。蝶八は一団を率いて南米北米を打ち廻りあまた艱難を重ねたるのちブラジルの地に客死せり。時に明治七年なり。取り残されたる一団は解散し、金次、慶吉らは本国に帰着せるも、彼の地に窮死せる者、行方知れざるもの多し。小蝶は黒人と結婚して曲馬団に加わり七八年がほど欧米を巡業せるも、のち失明して黒人にも捨てられ、娘ヤスにまもられて悄然帰国せりという。カツは梅之介の尽力により娘スミと共に他に先立ちてすみやかに帰国のかないたるは梅之介の罪ほろぼしにや。されど難路の疲れなるべし。帰国まもなく病を得て死せり。スミは叔母梅沢梅子に育てられ今日梅沢夢之助を名乗りて女剣劇の名花たり。
まことに異常な記録である。夢之助の母カツは中橋の芸人時代に情婦の一人であり無情を恨んで自殺未遂の経歴があるわけだ。それにも増して意外なのは、黒人と結婚して曲馬団に入り失明して捨てられたという柳川小蝶である。これぞヒサの召使いヤスの実母であろう。中橋がわずかの仕送りを与えて細々と暮しをたててやったも道理、一度は彼の妻たりし小蝶、連れ子のヤスは中橋を父とよんだ幼い時期もあったわけだ。
新十郎はしばし感慨に打ち沈んだが、ヤスをよんで、
「お前はいくつの年にアメリカから帰ってきたのかね」
と、だしぬけに問うと、ヤスは吃驚《びっくり》したが、
「十三の年でございます」
蚊のなくような声で答えた。
「お前はアメリカ巡業の一行の中に、一ツ年下のスミという娘のいたのを覚えていないかね」
「覚えています。三味線のカツおばちゃんの娘のスミちゃん!」
「そう。その娘が梅沢夢之助だということを、お前は知っていないのか」
ヤスは呆然、目を皿にしたが、
「いいえ。気がつきませんでした。そういえば面差しが残っています。一しょに遊んだのは六ツ七ツの頃ですけど」
夢之助をよんで、ヤスを記憶しているかと問うと、夢之助は首をふって否定した。彼女は当時、あまりに幼かったのであろう。
★
常見キミエが連行されてきた。その陳述は次の通りである。
彼女は中食後本郷の宿舎をでた。六区へ着いたのは一時ごろ。二時ごろ荒巻の姿を見かけて飛龍座へ追ってはいり、夢中で硫酸をなげつけて逃げた。探偵が自分の跡を追っているような気がして寸時も心の休まる時がなく、宿舎へ戻ればそこに探偵が待ちぶせているように思われ、彼方へ歩き此方へ曲りして、どこを歩き、どこをさまよったか、よくも記憶していないが、最後にどこかよく知らない寄席で時間をつぶして、深夜宿舎へ戻ってきた。キミエの陳述は以上の如く、てんで雲をつかむようであるが、罪を犯して逃げる者の心理としては、甚だ当然なことでもあった。
新十郎は再び荒巻をよんで、
「
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