して黒人にも捨てられ、娘ヤスにまもられて悄然帰国せりという。カツは梅之介の尽力により娘スミと共に他に先立ちてすみやかに帰国のかないたるは梅之介の罪ほろぼしにや。されど難路の疲れなるべし。帰国まもなく病を得て死せり。スミは叔母梅沢梅子に育てられ今日梅沢夢之助を名乗りて女剣劇の名花たり。

 まことに異常な記録である。夢之助の母カツは中橋の芸人時代に情婦の一人であり無情を恨んで自殺未遂の経歴があるわけだ。それにも増して意外なのは、黒人と結婚して曲馬団に入り失明して捨てられたという柳川小蝶である。これぞヒサの召使いヤスの実母であろう。中橋がわずかの仕送りを与えて細々と暮しをたててやったも道理、一度は彼の妻たりし小蝶、連れ子のヤスは中橋を父とよんだ幼い時期もあったわけだ。
 新十郎はしばし感慨に打ち沈んだが、ヤスをよんで、
「お前はいくつの年にアメリカから帰ってきたのかね」
 と、だしぬけに問うと、ヤスは吃驚《びっくり》したが、
「十三の年でございます」
 蚊のなくような声で答えた。
「お前はアメリカ巡業の一行の中に、一ツ年下のスミという娘のいたのを覚えていないかね」
「覚えています。三味線のカツおばちゃんの娘のスミちゃん!」
「そう。その娘が梅沢夢之助だということを、お前は知っていないのか」
 ヤスは呆然、目を皿にしたが、
「いいえ。気がつきませんでした。そういえば面差しが残っています。一しょに遊んだのは六ツ七ツの頃ですけど」
 夢之助をよんで、ヤスを記憶しているかと問うと、夢之助は首をふって否定した。彼女は当時、あまりに幼かったのであろう。

          ★

 常見キミエが連行されてきた。その陳述は次の通りである。
 彼女は中食後本郷の宿舎をでた。六区へ着いたのは一時ごろ。二時ごろ荒巻の姿を見かけて飛龍座へ追ってはいり、夢中で硫酸をなげつけて逃げた。探偵が自分の跡を追っているような気がして寸時も心の休まる時がなく、宿舎へ戻ればそこに探偵が待ちぶせているように思われ、彼方へ歩き此方へ曲りして、どこを歩き、どこをさまよったか、よくも記憶していないが、最後にどこかよく知らない寄席で時間をつぶして、深夜宿舎へ戻ってきた。キミエの陳述は以上の如く、てんで雲をつかむようであるが、罪を犯して逃げる者の心理としては、甚だ当然なことでもあった。
 新十郎は再び荒巻をよんで、

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