てをり支那の黄河のあたりをカメラをぶらさげて悠長に歩くことなど出来なくなるのは分りきつてゐるのに、脚本を書けと言ふ。思ふに専務は私の立場を気の毒がつたのだらうと思ふ。何もせず、会社へも出ず、月給を貰ふのはつらい思ひであらうと察して、こゝに大脚本をたのんだ次第に相違なく、小脚本ではすぐ出来上つて一々面倒だからといふ思ひやりであつたに相違ない。専務と私には多少私事の関係があるのだが、それは省くことにしよう。
黄河ををさめる者は支那ををさめると称されて黄河治水といふことは支那数千年の今に至るも解決しない大問題だ。支那事変の初頭に作戦的に決潰《けっかい》して黄海にそゝいでゐた河口が揚子江へそゝいでゐる。これを日本軍が大工事を起してゐるのだが、これが映画の主題で、この方は私に関係はない。私のやるのはその前編で、黄河とは如何なる怪物的な性格をもつた独特な大河であるかといふ、歴史的地理的な文化映画の脚本なのである。
おかげで私は黄河に就ては相当の勉強をした。本はたいがい読んだ。立教大学の構内に亜細亜《アジア》研究所とかいふものがあり、こゝに詩人で支那学者の、これが又、名前を忘れた、私は三好達治のところで一度会つたことのある人で、信頼できる支那学者であることをきいてをり、亜細亜研究所にこの詩人がつとめてゐるときいたので、訪ねて行つて教へを乞うた。支那学者が他に数人ゐて、あいにく黄河に就て特に調べてゐるといふ専門家はゐなかつたが、ともかくこゝで懇切な手引を受けて、それから教はつてきた本を内山に山本といふこれも教はつた二軒の支那専門の本屋で買つて読みだしたのである。
又、会津八一先生が、たぶん創元杜の伊沢君からきいてのことゝ思ふが、私が黄河を調べてゐることをきいて、私を早稲田の甘泉園といふところへ招いて、こゝには先生の支那古美術の蒐集があるのだが、黄河に関する支那の文献に就て教へていたゞいた。尤もこの方は支那の本だから、私には読む学力もないので、本の名を承つたといふだけで敬遠せざるを得なかつた。
実現の見込みのない仕事、つまり全然無意味なことをやれと云つても無理である。私はつくづく思ひ知つた。これが小説なら敗戦後も十年二十年たつたあとでは出版の見込もあるかも知れず、死んだあとでもといふ考へも有りうるけれども、支那の映画などゝは全然無意味で、敗戦と共に永遠に流れて消える水の泡にす
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