タイム、九時十七分。そのとき呉氏、記録係りに向い、対局の時計だけ、今を九時にしましょう、という。そうする。
盤に向って、呉八段石を握る。本因坊、丁先と言う。丁。本因坊、先である。
むしあつい。両氏、羽織をぬぐ。
本因坊、温顔、美しい目に微笑をたゝえて、考え、石を下していたが、一時間ほどたち、十四手目ぐらいから、顔が次第にきびしくしまって、鋭く盤を睨みはじめた。
温顔のころは四十五、六の顔に見えたが、鋭くひきしまると、二十四、五の書生の顔になり、逞しく、美しいのだ。こゝに本因坊の偉さがこもっているのだと私は思った。世評には、さしてその実力をうたわれず、然し木谷の挑戦をしりぞけて、二年本因坊を持続しているではないか。彼の実力は、目立たないが、然し、目立つ人々よりも悠々と逞しいのである。それが、このひきしまって鋭く、目の美しい、二十四、五の書生の面影の中に、こもっている。
二時間、たった。二十五手目、本因坊が考えている。呉氏、目をとじ、ウツラ、ウツラしている。目をとじ、からだを左右にゆさぶっているのは呉氏のクセであるが、どうやら本当にねむいらしく、コックリやり、パッと目をあけ、慌てゝ立ち上る。四五分して、目をパッチリさせて、新しい顔で、もどってきた。
下
横綱前田山、観戦に現れる。前田山、先般、月刊読売誌上に、呉氏に八子で対戦、敗北したが、角界随一の打手の由である。
とたんに、呉氏、キッと目をあげて、
「双葉関は、どうしていますか」
有無を言わさぬ、ノッピキナラヌ語調である。前田山は、クッタクがない。
「今、上京しとります」
「ホテル、ですか」
と、突きこむごとし。
「部屋を建設中で、両国にいます」
前田山の返答はクッタクがないが、とたんに読売の記者の面々、サッと、顔色を失ってしまう。正午から、安田画伯が現れて、スケッチにかゝる。両棋士の気魄が鋭くて、胸に食いこんで、苦しい、ともらし、三時ごろ、スケッチを終る。
「六時です。封じ手です」
六時五分、本因坊、紙をうけとり、後方へ横ざまに上体を捩じ倒して、封じ手、六十七手目をかきこむ。これを封筒に収めて、第一日を終った。
本因坊は自宅へ忘れ物をしたので、とりに行きたい、といいだした。本因坊と一緒に入浴中これをきいたか、呉氏が、浴室からでてくると、読売の係りの者に、対局中は旅館から一歩も
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