ような根気は見当らない。日本では裸一貫おッ放りだして売れるにまかせるような天然居士の商法がなく、思い出しの鳴物入りだから、出版の実績から、作品の歴史的生命を推定する方法がないようだ。万人の見るところ歴史的評価が定まったと見えるのは、啄木、漱石などで、「たけくらべ」なども、そうかも知れないが、すでに現代語でないから、読者の魂とふれあう数が次第に減少するかも知れない。また、金色夜叉などのように、流行歌に、芝居に、お宮と貫一の物語として国民的な伝記として伝承しても、小説としては生命が終っているものもある。
歴史の中に生き残ると、アドルフのような片すみの文学も、百何年かに千万人に読まれるのだから、百万という数は、傑作の読者数の単位としては少なすぎるようだ。
しかし百万人の小説という意味を歴史的な傑作という意味に解すれば、百万人の小説とは、批評家やジャーナリズムから独立して、直接に大衆の血の中によび迎えられて行くものの意味でもあろう。
皮肉なもので、批評家やジャーナリストの高級な価値判定と、読者の血肉としての受けとり方は違うことが多い。批評家やジャーナリズムは龍之介や潤一郎が高しょうに愛読
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