日からは断々乎として訪問を止さうと、私は頻りに其の愉しさを思ひはぢめるのであつた。すると鋭敏な辰夫は勝れた神経で忽ち私の胸中を推察し、別れ際には尚劇しく慟哭して、「迷惑だらうけれど明日も又、ね。君が来てくれないことになると僕は夕暮れを待つ力も失つてしまふ……」さう言ひ乍ら思ひがけない強い力で私の手首を握るので、その突瑳《とっさ》に私ははや明日の負担にフラ/\し乍ら、長い廊下を消え去るやうに歩きはぢめるのであつた。すると看護人に伴なはれた辰夫は別な廊下へ――そこには鉄の扉が三ヶ所にも鎖されてゐるが、まるで私をも幽閉する音のやうに鋭い金属の響を放ち、彼等の去り行く跫音《あしおと》と共に次々に開閉される憂鬱な響が地獄のやうな遠方から聞えてくる。矢張り明日も来なければならないと、悲痛な思ひで決意を強ひられる次第であつた。
ところが此の病院では私の心掛けが殊勝だといふのであらうか、三十分に規定された面会時間を一時間に――あゝ延長してくれた。この恩典の手前としても私は今日は齲歯《むしば》が痛むからといふ言訳で五十五分に切上げる分別さへ出来ないのであつた。マラルメは頽廃派だから歯が痛むと唄つてゐるが、私は齲歯を痛めてもならない。斯うして日毎に私達は一時間に零《こぼ》す語数が無に近い程減少して、私達の肉体も無になるのではないかと疑はねばならなかつた。
併し私は病院のほかに辰夫の家庭へも足繁く通はねばならなかつた。つまり早く退院の手続をとるやうに願ふのが第一で、百円の金が急の間に合はなければ、差当つてチーズやバタの類ひ――といふのが、辰夫の家では父の沒後小さな食料品店を開いてゐたので、さういふ物を届けるやうに依頼するのが役目であつた。公費患者は一ヶ月の食科が一人当三円といふので、殆んど残飯だけを食はされてゐたらしい。
辰夫の母は、これが又私の苦手であつた。重なる不幸でヒステリイが激してゐた所為もあるし、本来辰夫に遺伝するだけのものを此の人も充分具へてゐたから、話が世の尋常とは余程異つてゐた。
「ふゝん、気狂ひは決して治る病気ではありませんよ――」
と黄色い顔に歴々と冷笑を泛べて、ひどく私を軽蔑するのであつた。そして、「気狂ひのくせにバタが欲しいなんて斯んな僭越な奴があるでせうか、ねえ貴方……」ひどく馴れ馴れしく斯う言ひ乍ら、遂ひ私をも同腹一味の徒党にして頻りに辰夫の悪口を私と
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