。左門の親しい友であつた。童貞マリヤの理想のためにいちは結婚を憎んでゐたが、もはや我儘はとほらなかつた。いちは泣く泣く結婚した。鹿鳴館の絢爛な夢が恰もそのころ余燼を絶たうとしてゐたやうに、いちの半生の神秘な夢も終りを告げたのであつた。
いちは青木雄策に嫁して四児をあげた。かしらの三児は女子であつたが、最後の一人が男子であつた。青木卓一は厭世港市の性格のほかに、母親の傷つきやすい夢の狂躁をうけて生れた。明治三十五年(西暦一九〇二年)だつた。
卓一が四歳の時であつた。父雄策は狂死した。発狂は死の前年のことだつた。後年卓一は父の発狂の真相を突きとめたいと思つたが、遺伝関係の手係りもなく、異国時代のジフィリスもその確証があがらなかつた。人々のせはしなく立騒ぐ黄昏れどきに家を脱けいで、野犬のやうに路傍に食をあさりながら彷徨《さまよ》つたあげく、とある漁村の砂丘の襞に行倒れた彼の姿が見出されたときは、もはや瀕死の状態であつた。卓一の記憶に父はなかつた。隆盛だつた病院もなかつた。彼が物心ついたときには、海へ通ふ砂径沿ひの緑陰のしじまの深い閑かな借家に一家は住んでゐたのであつた。いちの中にはサンタ・マリヤもすでに死に絶え、因習の外部に目覚めた童女の叡智はもはやなかつた。マリヤの理想を捨てるとき一人の女性を捨てたのだ。家附きの油虫か奴隷のやうな、古い日本のひとりの女に還つてゐた。婚家に伝はる仏教に帰依し、諦らめを知り、覚めるがゆえに夢を悪《にく》み、傷つくがために不羈独立の志操をきらひ、市井の因循細心な安危の世界に感動した。そのほのぐらい生活が、卓一の最初の心に二重の暈で逃げたい心を植えてゐた。
十二三の頃だつた。ふだん使はぬ部屋のひとつで不思議な本を発見した。手の湯気のつく皮のの表紙の大型の洋書であつた。一冊づつめくつてみると、髯のある品格の高い一人の異人が木立の深い風景め中で銃身の長いピストルを空へ向けて構えてゐた。別の頁に、襞の深いスカートをひいた綺麗な女が椅子にくづれて泣いてゐた。決闘とそれにからまる悲しいことや戦慄が少年の胸にひびいてきた。一字も読めない文字の中から、綺麗な異人を泣かすほどの悲しさが、妖しいまでの艶めかしさでむらだち流れてくるのであつた。本と本の間から模様の古風なトランプがでてきた。西洋の栞があつた。誰の使つた物だらうか? 打ち開けてはならぬ秘密の深さ
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