きた当座は懐に金があるのを睨んで厭な顔もしなかつた。水商売の女のことで、その頃は応分の御礼を惜しまなかつたからだが、坐してくらへばといふ諺のせゐではなしに、敗戦後は金の値段が一桁以上狂つたから、その所持金はたかの知れたものになつてしまつた。
 オコノミ焼の娘がいつ頃から闇の女になつたのだか、夏川はくはしいことは知らないが、娘自身は芸者になりたかつたのださうで、母親は妾にしたかつたのだが、因業爺がくどく言ふので闇の女になつたといふ。それは母親の愚痴話だ。芸者になるには着物がない、着物だ何だと自分の入費ばかりで一文も親の身入りにもならないといふ因業爺の説であり、妾だなどと旦那の物色は金持の先の知れないこの節はやらないことだと云つて闇の女をすゝめたといふのだが、娘は十八、闇の女にはもつたいない美人であつた。然るべきお金持の妾にして左団扇《ひだりうちわ》と母親が子供の頃から先をたのしみに育てたのも水の泡、忿懣《ふんまん》やる方なく因業爺を呪つてゐるが、ことの真相は奈辺にあるやら分りはしない。母親は内気で水商売の女とは思はれぬぐらゐ気立の良さ、人の善さを失はずにゐる女だが、えゝマヽヨと肚をきめると何をやりだすか分らないヤケクソの魂をかくしてゐた。娘自身がわが身の境遇を不幸だなどとは露いさゝかも思はず、近頃では昼夜家をあけることが多く、焼跡の蒲鉾小屋のやうなオデン屋で酌婦をやつたり、闇屋のアンちやんに頼まれて売子をやつたり、時々金はもつてくる。金さへあげればいゝでせう、その言ひ方が癪だと云つて母親は凄い見幕で怒りだすが、さほど下卑た言ひ方ではないので、はすつ葉な物腰物の言ひ方にもまだどことなく娘らしさが残つてゐる。母親にしてみれば、それも亦《また》断腸の種であるかも知れない。
 夏川がこの一室へころがりこんだのは、まだ封鎖前の彼の好景気の頂上だつた。そのころ彼はあぶく銭を湯水のやうに使つて、夜も昼ものんだくれ、天地は幻の又幻、夢にみた蝶々が自分の本当の姿やら、何が何だか分らないといふていたらくで、朝から寝床でウヰスキーのラッパ飲みといふ景気で、身辺はオモチャ箱をひつくり返したやうなドンチャン騒ぎの連続であつた。彼はそれを空襲のあの轟音ともまがひのつかぬヤケクソの夢幻の心でだきしめて、ヒロシやオコノミ焼の母娘を芸者のやうに総あげの意気で飲んだり飲ませたり金をくれてやつたり、娘が家
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