、あたゝかいものが手にふれた。ヒロシであつた。
 ヒロシは彼の背にピッタリと坐つてゐた。端然と、まさしく端然と坐してゐるのであらうけれども、端然などと人が云ふのは着物あつてのことで、フンドシ一つの端然といふ姿はない。然るべき着物を然るべく着こなして、日頃くづれといふものを露ほども見せたことのない身だしなみの格別の色若衆であつた。その姿の麗しくみづみづしいのは、女のやうななで肩で、細々と痩せ身のせゐであつたらうが、フンドシ一つではとんと河鹿《かじか》が思案にくれてゐるやうで、亡者が墓から出てきたばかりのやうに土の上にションボリ坐つてゐる。
 夏川は目がさめて、慌てゝ身体を起すと、先づ、つゞけさまに、七ツ八ツ嚔《くしやみ》をしたものだ。すると忽ちそれに応ずる響の如くにヒロシが嚔を始めたが、七ツ八ツどころか、十五、十六となり、二十、二十一となつても、まだ口をあけてハアハアしてゐる。あげくに五寸もある洟水《はなみず》がぶらりぶらりと垂れてきたのを、手でつらゝをもぐやうに握りしめたが、こゝまできては古典芸術の修練も如何とも施す術がないやうだ。
「ヒロさん。風をひいたやうぢやないか」
「えゝ、ナアさん」
 ヒロシは蚊の鳴くやうな声をふりしぼつて答へた。
「いかゞですか。お身体にさはりやしませんでしたか」
「私もいくらか風をひいたかも知れない。それにしても、私たちは、どうしてハダカなんだらう?」
「あら、ナアさん。あまりですわよ。御存知ないのですか」
「いや、なるほど。あゝさう/\。なるほどね、思ひだしたよ」
 さすがに夏川も腕を組んで(なに寒くて、腕を組まずにゐられないのだ)千丈の嘆息をもらしたものだ。昔から裸で道中はできないといふ。いくら焼跡の浮浪児でも、シャツぐらゐは着てゐるだらう。どうしても家へ帰らねばならなくなつてしまつたのである。母の待つ家へ。ところで、そのときにヒロシがかう言つたものだ。
「ナアさん。お恨みは致しません。運命ですわねえ。あたくし、かうして、おそばに坐つてゐるだけで、しあはせですのよ」
 かうして夏川は母の待つ家へ裸で帰つて行つた。まことに星のめぐり合せといふものは仕方がない。作者がいかほど深刻な悲劇をのぞんだところで、事実の方が、かうしてトンチンカンにめぐつて行くのだから仕方がない。
 あひにくのことに、母はまだ寝もやらず起きてゐたものだ。障子にその
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