のである。
 その論争が位置の上下から始まったし、論争してる者が事ごとに敵手たる二名であったから、久作はふと考えた。この部落の天皇は自分の家であったかも知れない。なぜなら十一戸の戸数のうち、上に五戸、下に五戸、自分の家は真ン中だ。こう思いつくとにわかにその気になったから、彼は横からこの論争に参加して自説を唱えたが、彼の主張が一番バカげたものだと部落中の物笑いに終った。もともと保久呂湯によっていくらかは人に知られている部落であるし、現に保久呂湯が部落の中心で、部落のデパートでもあれば集会所でもあるのだから、部落が保久呂湯から起ったときめる方が理窟ぬきに割りきれている。それでこの論争はだいたい三吉の主張が部落の人々の支持を得たようだ。
 当時、三吉は保久呂霊薬を売りだして当っていた。家伝霊薬と銘うって千年も前から伝わっているように云いふらしていたが、万事は三吉の方寸からでたもので、草津の湯花から思いついたものであった。保久呂湯も湯花がでる。水の時はでないが、湯にすると、落し口にたまる。部落では湯花と云わずに湯渋と云っているが、この鉱泉は渋の色をしていて、味も渋く、万事渋の表現が適している。三吉はこの湯渋と木炭をすりつぶして、これを酢でねると打身骨折の霊薬と称して売りだした。これが意外に売れて、湯治の客も買って行くが、近在からの註文が少くなかった。部落の人々も用いてみて、よくきくという評判である。そこで久作は怒った。
「家伝とは何事だ。お前の代までなかったものではないか」
「それが商法商才というものだ」
「モウモウとわきたつ草津の湯とちがって、お前の湯は小さいワカシ湯ではないか。一日にせいぜい一握りの湯渋がとれるだけだ。怪しき物をまぜているな」
「効能があれば、よい」
 三吉は痩せて小柄で、胃弱のためにいつも蒼ざめ、猫背をまるめている不キゲンな小男であった。何を云うにも不キゲンだった。そしてプイとソッポをむく。それが霊薬で当ててから研究室の博士のようにも商事会社の社長のようにも見立てることができるように思われた。そのために久作は一そう三吉を呪ったが、自分にも何かに見立てることができるような威厳が欲しいと執着するようになったのである。彼の顔には目の下に泣きボクロという大きなホクロがあった。口サガないワラベどもに笑われるだけのホクロであるが、保久呂村の天皇家だからホクロがある
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