が習慣になったのである。ところがここに意外なことに、按吉は従来の定説を一気にくつがえす発見をした。これに就いては物識りの風来山人まで知ったか振りの断定を下しているほどであるが、大きな円々と響く屁は臭くないという古来の定説があるのである。ところが先生の屁ときたら、音は朗々たるものではあるが、スカンクも悶絶するほど臭いのである。即ち先生がなんとなく廊下を往復なすっていらっしゃったのは、蓋《けだ》し自ら充分に御存じのところであったのだろう。学問の精神は高邁《こうまい》なものであるけれども、ここに於て按吉は、チベット語の臭気に就いて悲痛な認識をもたなければならないのだった。その頃の按吉の日記の中の文章である。
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外は晴れたる日なりき
今日も亦《また》チベット語を吸いて帰れり
[#ここで字下げ終わり]
この二行詩はいくらか厭世的である。先生の放屁にあてられて、彼は到頭《とうとう》思わぬ厭世感にかりたてられていたらしい。按吉はこの二行詩が出来上るまで詩というものを作ったことがなかったのである。ところが彼はこの時|俄《にわ》かにこの世には散文によっては表明しきれない何物かが在
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