人の惨めな生徒であったのである。
尤《もっと》もこんな男でも、たったひとつ効能のあることが分ってきた。というのは、涅槃大学校の印度哲学科というところは、時々先生がわざわざ三十分も遅れたあげく教室へ出向いてくるのに、生徒の影がひとつもないということがあるのであった。即ち坊主の子供達は就職の心配がないのであるし、世襲の職業に情熱や興味を持っていないからなのである。時間制の月給をいただいていらっしゃる先生達は、人のいない教室に四五十分もうたたねしたり鼻唄うたったりしながら風をひいたりするのであった。そこで教務課長というような人が級長を呼び寄せて言うのである。君達の立場は分るのであるが、など同情深く口籠ったりしながら、籤引《くじび》きで受持ちの講義を決めるのはどういうものだね。つまり各々の講座には必ず一人の学生が決死の覚悟で出席する。いや、即ち君、これは学生の義務というものじゃからね、などと言い渡すのだった。と、栗栖按吉のクラスでは、まさにその心配がないではないか。
ここに坊主の子供達が御布施をくれたって俺はでないねという講座が二つあるのである。梵語《ぼんご》と巴利《パーリ》語の講座であった。ところが栗栖按吉が何より情熱傾けてこの講座へせっせと通う。調べてみると、一日に七八時間も文法書をひっくりかえしたり辞書をめくっているという話なのである。梵語の先生は大変心のやさしい方であった。新学期の第一日新入生を大変やさしくにこにこ見渡して(この時だけは一同出席していた)梵語というものは何年おやりになっても決してうだつの上らないものでございます、と仰有《おっしゃ》るのである。四五年前大変熱心に勉強なすったお方がありまして、今もって私のところへここはどうだ、これは何だ、とおききにいらっしゃいます。この方は日がな一日梵語の勉強をなすっていらっしゃる、ところが梵語は辞書をひけるまでがまず一苦労、却々《なかなか》探す単語がおいそれと辞書から顔を出しません。いやはや梵語学者と申しましても、みんなそれぞれ怪しいものでございます、と仰有るのである。だからもう決して無理に梵語の勉強をおすすめは致しませんと、大変やさしく親切に言葉をつくして仰有るのだった。これでも梵語に出席しようという奴は、馬鹿でなければ礼節を知らない無頼漢のひとりであるに相違ない。
けれども先生はやさしい心のお方だから、二学期になったというのに、まだひとり生徒が出席していても、決してお怒りにならないのだった。いつもやさしく、にこにこと講義をつづけて下さるのだが、幾分薄気味わるくお思いになるのであろう、というのは、この男が思い余った顔付をして質問したりするからで、この男が首をあげて今にも物を言いそうになると、先生は吃驚《びっく》りなすって目をおそらしになるのであった。
梵語とか巴利語はなるほど大変難物だ。仏蘭西《フランス》語は動詞が九十幾つにも変化するということだが、そんなもの梵語の方では朝めし前の茶漬けにもならないという話なのである。それというのが後年栗栖按吉が仏蘭西語の勉強をはじめたからで、このような鈍物でも、梵語の方で悩んできたあとというものは恐しい。九十幾つの変化なんていやはや、どうも、やさしくて仕方がないのだ。覚えまいと思っていても覚えるほかに手がないという始末である。だから栗栖按吉は仏蘭西語を勉強しようという人に、こういう風に言うのであった。キ、君々々。ボ、梵語を一年も勉強してから仏蘭西語としゃれてみろ。あんなもの、朝めし前の茶漬けだぜ。え、おい、君。
梵語の方では名詞でも形容詞でも勝手気儘に変化する。ひとつひとつが自分勝手と言いたいほど不規則を極めている。だから辞書がひけないのである。
按吉はどこでどうして手に入れたかイギリス製の六十五円もする梵語辞典を持っていた。日本製の梵語辞典というものはないのである。これを十分も膝の上でめくっていると、膝関節がめきめきし、肩が凝《こ》って息がつまってくるのであった。これを五時間ものせている。目がくらむ。スポーツだ。探す単語はひとつも現れてくれないけれども、全身快く疲労して、大変勉強したという気持になってしまうのである。単語なんか覚えるよりも、もっと実質的な勉強をした気持になる。肉体がそもそも辞書に化したかのような、壮大無類な気持になってしまうのである。
按吉の机の上にはこれも苦労して手に入れた「ラージャ・ヨーガ」という梵書とその英訳が置かれている。もう半年も第一頁を睨《にら》んでいて、その五行目へ進むことができないのだった。
先生はやさしい心のお方だから、時々按吉をいたわって下さるのである。
「いまに原書が読めるようにおなりでしょう」先生はにこにこと仰有るのだった。
「もうひと苦労でございます」
然し按吉にしてみると、六時間
前へ
次へ
全10ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング