いえ/\死んでしまつたことでせうよ、ふびんな娘よと、母は仏間へ座つて娘の冥福を祈りはぢめる。時刻は深夜である。すると、娘がただ一人侘び住居を訪れてくる、コト/\と戸を叩くのである。
あれは娘が来たのでは――と、仏間の母がふと誦経をやめて立ち上らうとする。やい、まて/\と合邦がとめる、あれは闇を吹く風の訪れだと言ふのである。老母はそこで座にもどつて誦経をつづける。再び戸がコト/\となる。やつぱり娘ではと又立ち上る。なんの死んだ娘の来ることがあらうかと、合邦は慌てふためいて押しとどめる。実は内心てつきり娘と分つたのだが、娘とあれば殺さねばならず、思ひみだれて、とにかく家へは上げぬ分別と考へたらしい。あれは深夜の風の訪れにまぎれもないと言ひくろめて、老婆をむりやり仏前へ座らせてしまふ。又、戸が幽かにコト/\と鳴る。再三再四、同じことが繰り返される。たうとう老婆はたまりかねて、いいえ娘です/\と狂乱の態で、いとしい娘よと戸口の方へ走りよる、合邦もとめかねてしまふ。
さて一方戸外の娘は、深夜を背に負ひ、戸口へ顔をあて、内部の動きをうかがひながらそれまでは戸をコト/\と叩く以外に何の身動きも表はさない。ところが、いよ/\老母が狂乱の態で戸口へ走りよる気配を察しると突然何物も見えない後の闇をつと振向き、思はずほつと肩を落す。――私は凄艶無類の美と静寂に深く心を打たれた。
表情のない、順つて、非現実的であり夢幻的であることを見物と約束してゐる人形芝居には、それ故、一種のベールをつけた心緒の上で、むしろ一層の現実性と実感とを含めうることができる。それはそれとしておいて、ちよつとした、このなんでもない玉手御前の動作の上に表はされた、驚くべき人間観察の深さを見ていただきたい。玉手御前のこの動きは文楽古来の伝承された型であるのか、それとも偉大な文五郎の創案によるものか、それはどちらでも構はない。要するに、大して重大でもない片隅の動作ですら、文楽は此の如き深い洞察から動いてゐる。
飜つて、日本の小説を見てもらひたい。
この種の微細な表現は、いはば末節のことではあるが、それにしても、「老母の戸口へ歩みよる気配をきくと、娘は闇をふりむいて、覚えずほつと肩を落した」――といふやうな深い洞察から出発した、精錬された行を以て綴られた文学は殆んどない。彼は笑つた、とか、彼は苛々と上体を動かした
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